大正から昭和にかけての代表的小説家。明治16年2月20日、父の赴任地の宮城県石巻(いしのまき)に生まれ、東京の山手(やまのて)の麻布(あざぶ)で育つ。父とは対立、旧相馬(そうま)藩出身の祖父を敬愛し、祖母とは愛憎の起伏甚大であった。学習院時代に武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、木下利玄(りげん)を知り、生涯の友人となる。内村鑑三その人の影響を受け、新宿角筈(つのはず)の内村の教会に通う。また歌舞伎(かぶき)、娘義太夫(むすめぎだゆう)に熱中、近松、西鶴(さいかく)や泉鏡花などの作品に親しみ、イプセン、ゴーリキー、モーパッサンなどの作品を英訳で読む。東京帝国大学に進んだが中退。1908年(明治41)武者小路らと回覧雑誌を始め、『網走(あばしり)まで』などを書く。学習院下級の里見弴(とん)らや柳宗悦(やなぎむねよし)らの回覧雑誌と合併、10年4月『白樺(しらかば)』を創刊。大正文学の出発点の窓がこの『白樺』により開かれる。
初期の志賀作品のなかには、『剃刀(かみそり)』『老人』『正義派』『クローディアスの日記』『清兵衛(せいべえ)と瓢箪(ひょうたん)』はじめ多様な技法を用いた客観小説の流れと、自己と肉親および友人をモデルに用いた私小説の流れとが入り交じって展開。さらに『濁つた頭』(1911)などに象徴されるようなキリスト教の戒めと性欲との葛藤(かっとう)を苦しみながら描いた。あくまでも自己内部の自然、その内発性を尊重、大胆に肉体の自然に従い、ときにはアナーキーな要素を含みながらも、自己を制御し、美と倫理との一致を図るべく努めた。1912年(大正1)9月『中央公論』に『大津順吉』を発表、最初の原稿料を得た。この作品にも恋愛を契機として展開する家との戦いがあり、4年前の主人公の体験が下敷きとなっている。のち尾崎一雄がこの小説を読み、大いに感動し、志賀直哉への師事の第一歩となる。
この年、父との対立がもとで広島県尾道(おのみち)に一時居住、『大津順吉』の延長線上の物語を書こうとするが果たせず帰京。第一創作集は祖母の名をとり、祖母に捧(ささ)げた『留女(るめ)』(1913)で、山手の青年の神経の過敏な短編作品を収録している。1914年、武者小路実篤の従妹勘解由小路康子(かでのこうじさだこ)と家の反対を押し切って結婚、京都や赤城(あかぎ)などにしばらく住む。姦通(かんつう)の問題を心理的に描いた客観小説『范(はん)の犯罪』(1913)などを書き、3年ほど創作を中止、千葉県手賀(てが)沼のほとり我孫子(あびこ)に移住。当時の我孫子には柳宗悦、武者小路、バーナード・リーチや中勘助(かんすけ)なども住み、『白樺』村的雰囲気が濃厚であった。志賀はその生涯において転居二十数回、居住した場所場所に材をとった名作を発表している。
中期の志賀の創作活動は1917年より再開、城崎(きのさき)温泉での静かな療養生活のなかで、生きることと死ぬことの意味を小動物に托して凝視した心境小説の代表作『城の崎(きのさき)にて』、我孫子生活のなかより生まれた『好人物の夫婦』、講談の伊達(だて)騒動を遠景に置きつつ、ユーモアに満ちた温かい間者(かんじゃ)の心理を描いた『赤西蠣太(かきた)』、長年にわたった父との争いが一挙に和解した直接的な喜びを率直に表明した『和解』などを発表、大正期の代表的な中堅作家となる。またバーナード・リーチ装丁の短編集『夜の光』(1918)を刊行。広津和郎(かずお)の古典的な『志賀直哉論』(『作者の感想』所収・1920)もこの時期に書かれ、見るべきものを正確に見抜く肉眼の作家志賀のイメージが定着した。また『大津順吉』『和解』とは異なった視点より描いた『或(あ)る男、其(その)姉の死』(1920)を唯一の新聞小説として連載。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)も敬服した『焚火(たきび)』には、静かで勁(つよ)く、親愛に満ちた東洋的詩精神が表れている。『真鶴(まなづる)』や『小僧の神様』も大正文学の名短編である。それらの短編群にあわせて、1921年、長編小説『暗夜行路(あんやこうろ)』が『改造』に連載され始め、その前編はひとまず完結したが、後編はすこぶる難渋、幾度もの断絶を繰り返しながらも、37年(昭和12)4月、ついに完結。小林秀雄、河上徹太郎(てつたろう)、谷川徹三らより賛辞が寄せられ、近代文学史上の不朽の名作となる。その間に我孫子から京都、山科(やましな)を経て奈良に転居。『雨蛙(あまがえる)』『山科の記憶』などの短編集を刊行した。『白樺』初期の西洋美術への関心はやがて東洋美術への関心に移行、当時の美術図録としてきわめて著名な『座右宝(ざうほう)』を編集して刊行。これもいわゆる普通の美術史にとらわれず、自己の肉眼による美意識にあくまでも執着したものである。周辺には滝井孝作、尾崎一雄、網野(あみの)菊、直井潔(きよし)、島村利正(としまさ)、藤枝静男、阿川弘之(ひろゆき)らが集まり、「志賀山脈」を成形。しかし、その私小説性や、伊藤整のいう調和的な「人格美学」的ありように対して、太宰治(だざいおさむ)、織田作之助(おださくのすけ)らの反発もあった。第二次世界大戦後は『灰色の月』『朝顔』『山鳩(やまばと)』など簡潔にして奥行の深い短編を発表。その影響の点では近代作家のなかでは随一の存在である。1941年(昭和16)芸術院会員、49年(昭和24)文化勲章受章。熱海(あたみ)から東京・渋谷に居を移し、悠然とした晩年を送り、昭和46年10月21日、88歳で死去。青山墓地に葬られる。
[紅野敏郎]
『『志賀直哉全集』15巻・別巻1(再刊・1983~84・岩波書店)』▽『本多秋五著『「白樺」派の文学』(1954・講談社/のち新潮文庫)』▽『安岡章太郎著『志賀直哉私論』(1968・講談社)』▽『高橋英夫著『志賀直哉 近代と神話』(1981・文芸春秋)』
大正・昭和期の小説家。宮城県石巻に生まれ,東京山手で育つ。父直温(なおはる)は慶応義塾出身の実業家。直哉に強い影響を与えた祖父直道は旧相馬藩の家臣。長男夭折のため次男直哉は祖母留女(るめ)の手で育てられた。学習院時代より内村鑑三の教会に通い,渡良瀬川の鉱毒事件被害地視察のことより父と対立。また落第したため武者小路実篤らと同級となる。1906年学習院から東大に進んだが中退。武者小路や木下利玄らと回覧雑誌を発行,これが下級の里見弴や柳宗悦らに影響を与え,10年4月《白樺》の創刊となる。直哉の文学の特質は短編小説において十二分に開花,とくに肉親と友人との愛憎を的確に摘出,これを簡潔にして適切な日本語を駆使して描きあげた。不快からはじまり対立,葛藤を経て,調和に至る肉体的,生理的な感情の起伏が作品の基盤となる。初期から中期にかけては,自分の周辺を見つめた作品群と客観小説とが交錯するが,《或る朝》(1908成立,1918発表)から《大津順吉》(1912)を経て《和解》(1917)に至る作品群が前者にあたり,《剃刀》(1910),《正義派》(1912),《清兵衛と瓢簞》《范(はん)の犯罪》(ともに1913),《赤西蠣太(かきた)》(1917),《真鶴(まなづる)》(1920)などが後者にあたる。父との対立が頂点に達したとき尾道に行き,その後も松江などに一時住む。14年には父の反対を押しきって武者小路の従妹の康子(さだこ)と結婚。京都,赤城などにも住み,柳宗悦,武者小路,バーナード・リーチなどとともに手賀沼のほとりの我孫子にも住む。直哉の場合にこのような転居がばねとなり次の作品が作られていく。父と和解した後は《城の崎にて》(1917),《焚火》(1920)など心境小説の名作を発表。《大津順吉》の延長線上の自伝的物語として私小説《時任(ときとう)謙作》に着手したが,父との和解のため変形を余儀なくされ,それが唯一の長編《暗夜行路》(1921-37)となり,構想から数えれば二十数年を費やしてついに完成した。その間我孫子から京都,ついで奈良に移る。内的モティーフを尊重,書きたいもののみを書き,夾雑物を切り捨て,圧縮の美を作り出した肉眼の作家として,広津和郎,芥川竜之介ら同時代作家,および後続作家に絶大な影響を与え,小林秀雄,谷川徹三や滝井孝作,尾崎一雄,網野菊,阿川弘之らに至る志賀山脈を形成した。同時に志賀直哉乗越えの試みが後代の作家の大きな課題となった。晩年は熱海さらに東京渋谷に住み,《山鳩》(1950),《朝顔》(1954)などの一刷けの作品を発表。文体そのままのような清淡な日常生活を送り,88歳の生涯を閉じた。
執筆者:紅野 敏郎
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大正・昭和期の小説家
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(平岡敏夫)
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1883.2.20~1971.10.21
明治~昭和期の小説家。宮城県出身。学習院をへて東大中退。幼少時に実父母から引き離され,祖父母に溺愛されて育つ。1910年(明治43)学習院時代の友人武者小路実篤(さねあつ)・里見弴(とん)や有島武郎(たけお)らと「白樺」を創刊。「網走まで」「剃刀」「彼と六つ上の女」「濁つた頭」「祖母の為に」「クローディアスの日記」「范(はん)の犯罪」などを発表する。14年(大正3)「児を盗む話」発表後,人生観の動揺からしばらく筆を断つが,やがて調和的な心境に落ち着き,17年「城の崎にて」で文壇に復帰。ついで長年の父との不和を解消し,「和解」を書いた。21年に唯一の長編小説「暗夜行路」の連載を開始。小説の神様とよばれたが,後半生は実質上創作活動から退いた。49年(昭和24)文化勲章受章。「志賀直哉全集」全22巻。
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…志賀直哉の短編小説。1917年(大正6)《白樺》に発表。…
… 大正から昭和初期にかけて,演劇界の主流が,イプセンを皮切りに思想性を重んずる写実的な方向に転ずるにつれて,シェークスピアは時代に取り残された趣があった。文学への影響も,たとえば志賀直哉の《クローディアスの日記》(1912)など,《ハムレット》を題材にした二,三の創作があるが,これも素材となったというにすぎない。第2次大戦後の新劇復興とともにシェークスピアの戯曲はレパートリーの中に確実な位置を占めたが,まだ教養主義的な外面的摂取の域を越えることがなかった。…
※「志賀直哉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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