恵光寺(読み)えこうじ

日本歴史地名大系 「恵光寺」の解説

恵光寺
えこうじ

[現在地名]八尾市萱振町四丁目

浄土真宗本願寺派、山号大徳山、本尊阿弥陀如来萱振かやふり御坊と称する。明応五年(一四九六)本願寺八世蓮如の六子蓮淳が開創したと伝えるが、「蓮淳草創ニテ文明年ノ事ナリ」(大谷嫡流実記)と、文明期(一四六九―八七)開創説もある。蓮淳の門弟賢心が相続したが天文七年(一五三八)六月に没し(「天文日記」同年八月一三日条)、蓮淳の孫延深が伊勢桑名の願証がんしよう寺より入寺した。延深は本願寺一〇世証如従兄弟にあたり、門徒衆の要請で入寺したものである(同書同年一一月一五日条)。証如は同八年一月二六日の裏書のある阿弥陀如来像(現平野区慧光寺蔵)当寺へ下付している。


恵光寺
えこうじ

[現在地名]大野市日吉町

近世の大野おおの城下てら町の南部にある。梅渓山知足院と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、文和年中(一三五二―五六)遊行六代他阿による開創という。初め春日神社の北、俗にガラガラ畠と称される地にあり、長崎称念ながさきしようねん(現福井県丸岡町)末寺であった。のち享保二年(一七一七)清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)の直末となった。天正六年(一五七八)の金森長近制札をはじめ歴代領主の安堵状などを所蔵する。享禄三年(一五三〇)の、いわゆる加賀における享禄の錯乱に呼応して起こった大野地方の一向一揆が弾圧され、天文元年(一五三二)本願寺門徒念仏が禁止された。


恵光寺
えこうじ

[現在地名]仲南町十郷

買田かいたにある。香積山日晴院と号し、真言宗御室派。本尊は薬師如来坐像で鎌倉期の作と推定される。脇仏の菩薩立像は木造で像高一〇一センチ、平安後期の作と推定され県指定文化財。ほかに大日如来帝釈天毘沙門天弘法大師像などを祀る。寺伝によれば行基菩薩の開基、弘仁一二年(八二一)弘法大師によって再建。宝永年間(一七〇四―一一)恵濬が再興、本山直末となり、丸亀藩主京極家の祈祷寺に定められたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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