成沢村(読み)なりさわむら

日本歴史地名大系 「成沢村」の解説

成沢村
なりさわむら

[現在地名]山形市蔵王成沢ざおうなりさわ蔵王西成沢ざおうにしなりさわ蔵王南成沢ざおうみなみなりさわ表蔵王おもてざおう南半郷みなみはんごう蔵王野際ざおうのぎわ蔵王美原ざおうみはら

松原まつばら村の東に位置し、りゆう山西麓の八幡はちまん山が平地に接する山裾丘陵と、川東岸平地に立地。もとは鳴沢と書き、豪雨に際し急に水が流れ、沢や細流が轟音をたてることからの名と伝える。瀧山への裏別口参道(成沢参道)に沿っていちさか・うつぼ清水しみず地蔵堂じぞうどうとうまえ隆昌寺跡りゆうしようじあと御熊野堂みくまのどう毘沙門堂びしやもんどう・うがいなどの地名が残る。中世から最上氏時代まで成沢城があった。

最上氏改易後は山形藩領、延享三年(一七四六)下総佐倉藩領、寛延二年(一七四九)下野宇都宮藩領、明和元年(一七六四)再び佐倉藩領となる。


成沢村
なるさわむら

[現在地名]鳴沢村 鳴沢・大田和おおだわ

東は勝山かつやま(現勝山村)大嵐おおあらし(現足和田村)、北東は天神てんじん峠を越えて長浜ながはま(現同上)に通じ、北は足和田あしわだ(一三五五メートル)を境として八代郡西湖にしのうみ(現同上)。同山の南麓に成沢、南東麓に大田和の集落がある。南部は富士裾野で、大嵐村から南西に向かう若彦わかひこ路が大田和を通り、富士裾野の天神峠を越えて駿河国上井出かみいで(現静岡県富士宮市)に入る。「勝山記」明応七年(一四九八)の記事に「大田輪」がみえ、同年八月二五日に大地震があり、その三日後には大雨と大風がはなはだしく、大田輪を含めた周辺はすべて山津波に押されて大半の人々が死んだという。同書にはこのほかにも当地域の災害や飢饉の記事が多くみられる。駿河上井出方面に至る神野路という道が若彦路から接続して通り(甲斐国志)、治承四年(一一八〇)の源平合戦の際に甲斐源氏が通過している(「吾妻鏡」同年一〇月一三日・一四日条)


成沢村
なりさわむら

[現在地名]松山町成興野なりこうや

大川渡新田おおかわどしんでん村の南東にあり、西は最上川を境に荒鍋あらなべ新田村(現東田川郡立川町)。最上街道が通る。当村は寛永一八年(一六四一)長右衛門・久作・彦右衛門らによって開墾されたという。正保元年(一六四四)検地帳(成沢区有文書)によれば反別四反余、同三年の正保庄内絵図(本間美術館蔵)には成沢新田とあり高の記載なし。享保一七年(一七三二)の検地帳(成沢区有文書)では高八五石余、以後幕末まで大きな変化はみられない。天保一五年(一八四四)には免二ツ一分、家数二一(「高辻并留」松山町資料館蔵)。延宝二年(一六七四)最上川沖積地の開田のため、地見興屋じみこうや村など四ヵ村とともに舟木ふなき沢から取水する上郷かみごう堰を築いたが、天和二年(一六八二)の大洪水で堰口が破損し廃棄された。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]湯沢市成沢

奥羽山脈西側の山すそに発達し、西部に横手盆地が広がる。北は岩崎いわさき村、東はあまだい山を越して戸波となみ村(現平鹿ひらか郡増田町)、南は杉沢すぎさわ村、西はもり村・岩崎村と接する。「秋田風土記」に「杉沢より十丁北、街道なり」とある街村集落。

慶長一六年(一六一一)五月の兼田家文書に「岩崎の野すへ新開之事」とあり、岩崎村の弥右衛門が岩崎分の野原である成沢野を開拓、成沢堰を開いた。成沢堰は皆瀬みなせ川から取水し、岩崎村より横山よこやま野荒田のあらだを経て梨木田なしきだに至る長さ一九町四五間、田四五町九段の灌漑用水である。


成沢村
なるさわむら

[現在地名]日立市東成沢ひがしなるさわ町一―三丁目・中成沢なかなるさわ町一―四丁目・西成沢にしなるさわ町一―四丁目・成沢町

東は海、西は多賀山地で、山麓を岩城相馬いわきそうま街道が北の介川すけがわ村に通じ、古い道(現国道二四五号)は海岸に沿って会瀬おうせ村に入る。現中成沢町には縄文時代中期の遺跡がある。

近世は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高の多賀郡に「成沢村」とみえるが、「享保十年巳八月二十八日」とある墓石に「鳴沢村」と異記されるので、村名は村内を流れる川の上流の檜入沢ひねりさわの水音の鳴るのに由来するのかともいわれるが不詳。


成沢村
なるさわむら

[現在地名]水戸市成沢町

水戸城下の西北に位置し、東は飯富いいとみ村。平坦地が少なく、「水府志料」にも「山沢原野多き村なり。諺に九十二谷ありといふ」と記される。村の北端を藤井ふじい川が東流し、日光道・笠間道が東西に、宍戸ししど道が南北に通じる。

中世は江戸氏の家臣加倉井氏の支配下にあり、加倉井淡路守忠光の居所と伝える館跡があった(水府志料)が、現在は判然としない。のち佐竹氏の支配を経て宍戸藩領となり、正保三年(一六四六)の村替により水戸藩領に属した。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]江南町成沢

荒川右岸の沖積扇状地と江南台地にまたがる村。東は御正みしよう新田村、西は三ッ本みつもと村と男衾おぶすま千代せんだい村、南は押切おしきり・御正新田両村の飛地、北は春野原しゆんのはら村、村内を和田吉野わだよしの川が東流する。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳に譜代侍として永楽一九貫文の成沢藤三郎の名がみえるが、成沢氏は当地の出身といわれ、字だいに成沢館があったという。慶長三年(一五九八)四月の伊奈忠次知行書立(田中家文書)によると、鉢形はちがた(現寄居町)付近の知行地の収公に伴い、「成沢之内」の七八石余など計一千五三〇石余が替地として武川衆に与えられている。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]涌谷町成沢

篦岳ののだけ丘陵ほぼ中央の鞍部に開けた村で、南に江合えあい川の、北にはさま川の形成した低湿地を見下ろす標高約一〇〇メートルほどのところに位置。南は涌谷村、北は小里おさと村、西は下郡しもごおり村。中央に水田がわずかに開け、そのなかを涌谷宿、寺池てらいけ(現登米郡登米町)登米とめ宿を結ぶ米岡よねおか道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田一七貫七二七文・畑二貫四一六文。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]長岡市成沢町・花井はない

川袋かわぶくろ村の西の沖積平地にある。西は信濃川支流のくろ川を挟んで広野ひろの村・吉津よしづ(現三島郡与板町)。開村は庄屋近藤家の祖覚右衛門が、慶長(一五九六―一六一五)の頃瓜生うりゆう(現同郡三島町)近藤市左衛門から分家してこの地で独立し、川袋村・李崎すもんざき村、蔦都つたいち新田・広野村(現与板町)地続きの低地に灌漑溝と排水溝を設け、道路を開き、南方のやや高地を宅地と定め、北方と東方を開田する計画を立て、移住者を誘ってしだいに入込み、一村を形成した。


成沢村
なるさわむら

[現在地名]牧丘町成沢

室伏むろぶし村の北東に位置し、東を笛吹川が南流する。慶長古高帳に村名がみえ、高六五石余。領主の変遷は千野々宮ちののみや村に同じ。貞享元年(一六八四)の検地では高一八八石余、反別は麦田一町余・上田六反余・中田七反余・下田九反余・下々田一町三反余・山田六反余で田方計五町四反余、麻畑一反余・上畑二町六反余・中畑二町七反余・下畑二町七反余・下々畑二町七反余・山畑六町六反余で畑方計一七町八反余、屋敷一町余(牧丘町誌)


成沢村
なるさわむら

[現在地名]焼津市高崎たかさき

馬場ばんば村の南に位置し、高草たかくさ山の東麓に立地する。古くは馬場村と一村であったと伝える(駿河記)益津ましづ郡に属する。江戸時代の領主の変遷は岡当目おかとうめ村と同じ。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高八四石余。旧高旧領取調帳では高八六石余、うち津島つしま諏訪社(現諏訪八幡神社)除地一石・曹洞宗竜珠りゆうしゆ院除地一石。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]柏崎市成沢

東は五十土いかづち村、西は曾地そち村、南は曾地の枝村笹小屋ささごや、北は小黒須おぐろす村に接し、山間に孤立する。近世は元和二年(一六一六)から同四年の長峰藩牧野忠成領のほかは高田藩領、天和(一六八一―八四)以後にも一時高田藩に属したが以後幕府領


成沢村
なるさわむら

[現在地名]豊橋市石巻小野田いしまきおのだ

入文いぶみ村の南西に続く村。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地では西郷さいごう村のうち。寛文三年(一六六三)から元禄一〇年(一六九七)までは旗本小笠原外記領であった以外は常に吉田藩領。


成沢村
なりさわむら

[現在地名]糸魚川市成沢

川島かわしま村の北、うみ川右岸のやや広い河岸段丘上にある。東は真光寺しんこうじ村。草分は信濃国からの移住者と伝える。天和三年郷帳では高六二石五斗余、うち山高三斗九升五合で、屋敷数は一一である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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