承平・天慶の乱(読み)じょうへいてんぎょうのらん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「承平・天慶の乱」の意味・わかりやすい解説

承平・天慶の乱
じょうへいてんぎょうのらん

10世紀に東国と西国でほぼ時を同じくして起こった反乱。主謀者の名をとり、将門(まさかど)・純友(すみとも)の乱とも称す。

[森田 悌]

将門の乱

平将門の乱は939年(天慶2)を境に2段階に分かれ、前段階では東国開発領主間の私闘という性格が強かったが、第二段階になると朝廷に対する公然たる反逆となった。東国に土着した鎮守府将軍良将(よしまさ)の子である平将門は、少年時代上京して藤原忠平(ただひら)に仕えたのち帰郷して父の後を継ぎ、下総国(しもうさのくに)猿島(さしま)郡岩井(茨城県坂東(ばんどう)市)を本拠とした。その勢力範囲とする下総北西部一帯では伯父(おじ)国香(くにか)をはじめとする一族のものも勢力の発展を図っており、相互の関係は円満でなく、931年(承平1)に将門は叔父の良兼(よしかね)と女性問題や遺領のことで争い、ついで良兼に連なる前常陸大掾(さきのひたちだいじょう)源護(まもる)と戦いその子供らを攻め殺し、護を助けた伯父の国香も攻め殺した。当時在京していた国香の子貞盛(さだもり)は父の死により急いで帰郷し、良兼らと力をあわせ将門に対峙(たいじ)したが、大敗した。しかし朝廷の喚問を受けた将門の不在中に、良兼は勢力を回復し、帰郷した将門を破り、その妻子を捕らえた。これに対し将門は常陸国(茨城県)へ出かけた良兼を急襲して破り、ふたたび東国に威を振るうようになった。ここまでが第一段階で、当時勢力拡大にしのぎを削っていた私営田領主の争いの域を出ず、中央政府のほうもあまり関心を示さず、ただ治安を乱すということで、追捕(ついぶ)の官符を出す程度で済ませていた。

 ところが939年2月、武蔵権守(むさしごんのかみ)興世(おきよ)王と介(すけ)源経基(つねもと)が足立郡司(あだちぐんじ)武蔵武芝(たけしば)と争い、それを調停するために将門が武蔵国府に赴き和解に持ち込んだのであるが、手違いで経基の営所を武芝の軍が囲み、驚いた経基は将門が興世王らと謀り自分を殺そうとしていると思い込み、急ぎ上京して興世王と将門を謀反として訴えた。続いて将門は常陸国で国司に反抗し追われて逃げてきた藤原玄明(はるあき)を庇護(ひご)し、これが原因して常陸介藤原維幾(これちか)との間に戦端が開かれ、将門は国府を焼き払い維幾を捕らえ国印(こくいん)と鎰(やく)(鍵)を奪ったので、中央政府からみて明らかに反乱となってしまった。このような状況下で反乱を勧める興世王の教唆にのり将門は関八州の制圧に乗り出し、その掠領(りゃくりょう)に成功し、「新皇(しんのう)」と称し小律令(りつりょう)国家の成立を目ざした。朝廷では征東大将軍藤原忠文(ただふみ)を派遣したが、その東国到着以前に東国の豪族下野(しもつけ)(栃木県)押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)と平貞盛の連合軍が、将門が農時のため軍を解散したところを襲い、将門を誅殺(ちゅうさつ)した。

[森田 悌]

純友の乱

藤原純友は権中納言(ごんちゅうなごん)藤原長良(ながら)の曽孫(そうそん)で、伊予掾(いよのじょう)として赴任し、そのまま任地に土着し、日振島(ひぶりしま)(愛媛県宇和島市の西方)を根拠に威を振るい、海賊を働いていた。ただし936年(承平6)3月、南海諸国海賊平定の議が持ち上がったときには純友に海賊追討の宣旨が出されているから、この段階の純友は海賊行為をなす一方で政府に協力もするという、微妙な位置にあったらしい。しかるに939年に入ると純友は公然たる反乱に踏み切り、純友の行動を政府に報告しようとした備前介(びぜんのすけ)藤原子高を襲撃し、子高を捕らえその子を殺した。政府は最初、純友懐柔策に出たが失敗した。純友は讃岐(さぬき)国府(香川県坂出(さかいで)市府中町)を襲い、放火、略奪を行った。これに対し政府は小野好古(よしふる)を長官とする追捕使を派遣したが、完全に撃破することができず、941年には大宰府(だざいふ)を焼き払われるなどしたので、参議藤原忠文を征西大将軍に任命して鎮圧にあたらせた。この年5月22日、激戦のすえに純友軍を破り、小舟に乗って伊予に逃げ帰った純友を射殺することができた。

 当時人々は将門と純友が通謀して反乱を起こしたと考え恐慌に陥ったが、その事実はなく、将門の公然たる反乱を知った純友が、政府の混乱に乗じ事を起こしたということは考えられるものの確実ではない。この二つの反乱事件は地方政治の紊乱(びんらん)を露呈し、中央政府に衝撃を与えたが、意外に簡単に鎮圧することができたので、中央貴族に安易感を与えた側面があった。鎮圧軍の組織のあり方から10世紀軍制のあり方を知ることができ、将門軍に組織された従類(じゅうるい)、伴類(ばんるい)の分析を通じ、当時の兵士の社会構成史的あり方を追究することができる。

[森田 悌]

『石母田正著『古代末期政治史序説』(1956・未来社)』『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』『赤城宗徳著『平将門』(1970・角川書店)』『北山茂夫著『平将門』(1975・朝日新聞社)』『福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「承平・天慶の乱」の意味・わかりやすい解説

承平・天慶の乱
しょうへい・てんぎょうのらん

平安時代中期にときを同じくして起った平将門藤原純友の反乱。東国の平将門の乱は,初めは父の遺領をめぐる一族間の争いであった。平姓を賜わった高望王 (たかもちおう) の孫にあたる将門は,承平1 (931) 年叔父良兼と,同5年伯父常陸大掾国香,源護の連合軍と,さらに翌年には良兼,貞盛らと戦って勝った。この頃武蔵の新任国守と対立した興世王と,常陸介に抵抗する藤原玄明が将門のもとに庇護を求めてきたため,天慶2 (939) 年冬将門は常陸国府を占拠し,翌年下野国府を占領し,さらに上野国政庁に入り,みずから新皇と称して引続き武蔵,相模の国府を巡検し,事実上坂東の支配者となった。朝廷では藤原忠文を征東大将軍に任じて将門を討とうとしたが,忠文の到着以前国香の子貞盛と藤原秀郷は盟約を結んで同3年2月 14日将門を襲って殺した。一方,伊予国の前掾純友は任期満了後も伊予に土着して伊予沿岸の海賊集団を支配下におき,官物私財を略奪していた。天慶2年純友は京への海の関門である摂津に進出し,翌年2月朝廷は純友に従五位下を授けて懐柔しようとしたが失敗した。純友らは讃岐国府に攻め入って放火,略奪を行い,次いで海路筑前に入り大宰府を攻略した。この報に小野好古らは九州に急行し,博多湾で決戦が行われた。その結果海賊軍は敗れ,伊予に逃れた純友は同4年6月 20日橘遠保に誅され,乱は鎮定した。この2つの反乱に律令国家体制は大きく動揺した。

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百科事典マイペディア 「承平・天慶の乱」の意味・わかりやすい解説

承平・天慶の乱【じょうへいてんぎょうのらん】

10世紀前半,平将門(まさかど)と藤原純友(すみとも)が東国と西国で相次いで起こした反乱。下総(しもうさ)に勢力をつちかっていた将門は所領に関して一族と紛争を起こし,935年(承平5年)伯父の国香(くにか)を殺し,次いで常陸(ひたち)国司に抵抗した藤原玄明(はるあき)を助けて常陸の国府を襲い,国家への公然たる反逆を行い,ついには関東8国を手中に収め,新皇(しんのう)と称した。朝廷は鎮圧の軍を発したが,到着以前に,平貞盛・藤原秀郷(ひでさと)の軍が将門を討ちとった。伊予(いよ)国の藤原純友は瀬戸内海各地で海賊行為を働き,淡路(あわじ)・讃岐(さぬき)の国府,さらに大宰府(だざいふ)をも襲ったが,941年(天慶4年)小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。この二つの反乱で中央政府の動揺ははなはだしく,中央政府の全国統制力の喪失を示す事件であった。
→関連項目平国香平貞盛

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旺文社日本史事典 三訂版 「承平・天慶の乱」の解説

承平・天慶の乱
じょうへい・てんぎょうのらん

平安中期に平将門 (まさかど) と藤原純友が関東と西海でおこした反乱(935〜941)
平将門の乱・藤原純友の乱ともいう。将門は父の遺領をめぐる紛争から,935年伯父の国香を殺害。勢力を拡大して常陸 (ひたち) ・下野 (しもつけ) ・上野 (こうずけ) の国府を占領し,新皇と称し下総猿島 (さしま) に王城を営んだ。朝廷では征討軍を派遣し,940年平貞盛・藤原秀郷らによって将門は敗死。一方,前伊予掾 (いよのじよう) であった純友は939年,瀬戸内の海賊勢力と結び伊予・讃岐の国府を襲い大宰府に迫ったが,941年小野好古・源経基を追捕使とする朝廷の征討軍に敗れ殺された。この乱は京の貴族たちに衝撃を与え,また武士勢力が台頭する契機ともなった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「承平・天慶の乱」の解説

承平・天慶の乱
じょうへい・てんぎょうのらん

939年(天慶2)12月,東西ほぼ同時に発生した平将門(まさかど)の乱,藤原純友(すみとも)の乱の総称。承平年間(931~938)の坂東の騒乱は平氏一族の紛争であり,承平の海賊蜂起に対して純友は鎮圧側にいたと考えられるので,厳密には天慶の乱というべきか。藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛・源経基(つねもと)ら両乱鎮圧の勲功者は破格の官職・位階を与えられ,武士が政治的に進出する出発点となった。

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