掘立柱は地面に穴をうがち,中に柱を立て,柱の根元を地中に固定する形式の柱をいい,竪穴住居にも使われるが,平地に掘立柱を立て,屋根を地上までふき降ろさない形式の建物を掘立柱建物として,竪穴住居と区別し,平地式と高床式(高床住居)に分ける。ヨーロッパではバルカン半島からドナウ川沿岸地方にかけて栄えたダニューブ文化(前5千年紀)以来,長方形平面の掘立柱建物が住居の主流となって,石造建築の栄えたギリシア・ローマ時代においても,アルプス以北の森林地帯ではその傾向は変わらない。中国大陸においては殷代早期の河南省偃師二里頭遺跡の宮殿址に,版築(はんちく)基壇上に掘立柱を立て,柱下に礎石を備えた例がある。
日本においては弥生時代の初め,稲作文化に伴って掘立柱建物が移入され,竪穴住居と共存して弥生時代には主として西日本に普及し,古墳時代には東国にも及んだ。弥生前期の遺構は少ないが,弥生時代中期には銅鐸や土器に高床式や平地式の掘立柱建物の絵が描かれ,遺跡では岡山県百間川遺跡(弥生中期)や福岡県湯納遺跡(弥生後期)など,低地に営まれた掘立柱建物のみからなる集落遺跡がある。掘立柱建物平面における平地式と高床式の相違点は,平地式は福岡県久保園遺跡(弥生中期後半)の梁間5間,鹿児島県王子遺跡(弥生中期末)の梁間3間(独立棟持柱をもつ)などの例のように,梁間2間以上で一般的に規模が大きい。これに対して高床式は弥生時代から古墳時代前期にかけて梁間1間,桁行2~3間が一般的で,和歌山県鳴滝遺跡(5世紀前半)以降に梁間2~3間の総柱建物(床を支える束柱のある建物)が出現し,倉庫建築の主流となる。このような掘立柱建物は弥生時代から古墳時代にかけての地方豪族層の居館に,奈良・平安時代には宮殿や都城内住居のほか地方官衙等に広く採用される。平城京内の一般庶民住宅や地方集落における掘立柱建物の規模は桁行3間,柱間寸法6尺前後が圧倒的に多く,庇(ひさし)のない構造が普通であるが,京内の住宅では1面庇の例も比較的多い。5位以上の貴族・高級官僚邸の主屋の標準的規模は桁行7間,柱間寸法10尺の2面庇建物で,住宅建築としては内裏正殿の桁行9間,梁間5間,10尺等間の4面庇建物が最大である。ただし,中央,地方を問わず,役所の建物は桁行・長さに制限なく,平城宮馬寮の桁行22間無庇建物や,桁行11間2面庇建物の例のように機能に準じている。
掘立柱の掘形(ほりかた)は石器や棒などを用いた手掘りのものは平面小円形で,深さも手の届く範囲の50~80cmであるが,豪族首長層の住居例のように鉄製工具を使用したと思われるものには長さ,深さとも1m前後の方形掘形が多く,その方法は奈良・平安時代に引き継がれる。掘立柱の足固め地業としては一般的には掘り上げた上を再び埋め戻して固めるだけであるが,軟弱地盤の場合は版築で埋め戻したり,柱の不同沈下を防ぐために柱下に礎石や板,栗石などを敷き,貫や枕木を用いることもある。木材は水と空気によって腐食が急速に進む性質があり,掘立柱は地面に接する部分が最も腐りやすい。このため7世紀の木造塔心柱以来,地中部分の柱の周囲に粘土を巻いて根腐れを防ぐくふうも一般的に行われる。建物の改築や廃棄に当たっては掘立柱の根腐れ部分で切断し,地下に残されることが多い。地下水位が高く空気の侵入を遮断した遺跡ではよく保存され,全国的に発見例は多い。このような柱材を柱根(ちゆうこん)と呼ぶ。柱根と上部架構を残す現存最古の掘立柱建物は法隆寺東院回廊(738ころ)で,百数十年を経た貞観年間の修理で根腐れ部分に礎石を挿入したものである。また,伊勢神宮の社殿は20年ごとの式年造替により材料は新しいが,形式は弥生時代にまでさかのぼりうる掘立柱建物の古式を伝える。
一般の集落における竪穴住居から掘立柱建物への変化は,畿内が最も早く6世紀後半,東海地方8世紀,九州地方9世紀前半,関東地方10世紀後半ころで,中部山岳地帯や東北地方などの寒冷地では中世まで竪穴住居の残る例がある。その後,掘立柱建物は近世初頭ころまで住宅建築の主流としての地位を保つが,近世に入ると礎石・土台建てが普及し,以後急速に衰退する。
→住居
執筆者:宮本 長二郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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