人間は、ヒトという種類の生物として生存するため、まず、置かれた環境のなかで飢えと寒さから身を守るために衣服をまとう術(すべ)を知り、住居をつくり、農耕の技術を学ぶことによって、その環境に適応してきた。さらに、自然界にあるさまざまの物質を操作的に利用することによって、人間が生存するために都合のよい環境に変形させながら、その過程のなかで文明を築いてきた。また同時に人間は道具と言語を操ることによって、人間同士の間にコミュニティをつくり、物質の世界を変革してきたのである。人間が他の動物と比べてもっとも異なる点は、言語の成立と道具を操る手の存在である。換言すれば、道具と言語とは、人間をもっとも人間らしくあらしめた二つの要因であるといえよう。
[内田 謙]
「操る」ということばの意味を辞典から拾ってみると、道具などを思いのままに巧みに使う、言語を巧みに使う、人に取り入って自分の思いのまま動かす、などがあげられている。人類は、言語を、物と生物とを操るための手段として用いてきたのである。そして物を操るために道具をつくり、その道具を使って多くの物を創造し、また一方では言語を操ることによって、人間同士、一つの社会を形づくってきたわけである。
人類の文化は、言語と道具とが相互に関連をもちながら築かれてきたのである。このことについてドイツの技術哲学者ノワレLudwig Noiré(1829―1889)は、道具がいまだ人間の威力の範囲、影響圏を広げないでいた時代にあっては、人間の話しことばや思想は貧困なものでしかありえなかっただろうと述べている。
つまり、道具によって遂行されるもろもろの活動が絶えず分化し、それまでの活動と本質的に区別されるという繰り返しのなかで、それまで存在していたことばから新しいことばが生まれ、それらの一つ一つのことばに新しい意味が獲得されてきたのである。操るという行為は、そうした背景のなかで人間が得たものである。
また操るということばには、ヒトヲアヤツル、つまり人に取り入って自分の思いのままに動かすことが含まれている。人を巧みに操ることである。これは、技術者を意味するエンジニアengineerということばに、巧みに策を巡らすの意があることに似ている。つまり、エンジンengineなる語が語源的にみて、才能やくふうの才に富んだという意味を示しているように、操るということばは、道具を巧みに使うこと、また、人を操ることは、技術とかかわりをもっていることを物語っている。
[内田 謙]
人間にとって、手を使って物を操るという行為は、言語に表現される概念に基づいて、手のもっている運動の力、多様さ、動きの拡大や速さなどを統一することである。つまり、握る、つかむ、つまむなどの概念が、そのまま手の行為として表現されているのである。手に握られた物が手と一体になるためには、手の働き(機能)が重要な役割を果たしているのである。
手で物を操るためには手の運動が伴う。道具は人間の四肢の機能を延長させて外化(がいか)されたものであり、しかも人間の手から離れることのできない存在であって、道具はそれぞれ異なった形態と機能をもたざるをえないのである。それらの使用にあたっては、動かす手と動かされる道具とは密着し、一体となって作業が行われている。
道具を使って人間がさまざまの物をつくりだすとき、道具は人間化され、人間と完全に一体となったときに最高の効果をあげるものである。道具と人間とが一体となるためにはかなりの技能が求められる。アメリカの文明批評家マンフォードは、機械と道具の本質的な区別は、それを操る人間の熟練性と動力とから、その操作がどれだけ独立した存在にあるかの程度いかんにある。つまり道具は手加減と器用さに、機械は自動作用に適している、と述べている。
今日の子供はナイフを使って鉛筆を削ることができなくなっていることが指摘されている。ナイフで鉛筆を削るという作業は、ボタンやスイッチを操作するだけで作業が遂行されてしまうのと異なって、ナイフと手が一体となって行われる、操るということばを現出させる行為である。
物をうまく操るためには手加減と器用さが要求される。器用さとは人間のもっている総合的な運動能力であるといわれる。アメリカの人間工学者E・A・フライシュマンE. A. Flishmanは、この運動能力には主として手を使うときの精神的運動能力と、大きな筋肉の運動をする際の身体的な上達能力の二つがあり、それらの運動能力を構成する因子は20項目になる、と述べている。項目のなかには、指の微妙な運動能力、手の運動を制御する腕の調節能力、刺激に対する反応時間などが含まれているが、器用さはこれらの運動能力を基礎として成り立っている。
[内田 謙]
道具の段階にあっては、道具自体に運動方向や時間が指示されているが、運動範囲は広い自由度をもっていて、その自由度を作業目的にかなうようにするために、どのような拘束をすればよいのかは、人間の手にゆだねられている。鋸(のこぎり)を例にしてそれを考えてみると、歯は一列に並んでいて、物を切るためにあらかじめ往復直線運動の方向が規定されている。そして同時に、一つの歯が物体を切ったあと次の歯が続いて切ることができるように歯が連続しており、切る時間を規定している。
つまり、鋸を使って物を切断する場合、切断の対象となる材料の硬軟度、大きさなどによって、規定されている運動方向に沿ってどの程度の力を加えるか、一列に並んだ歯のどの範囲を使うかなどは人間にゆだねられている。しかも握られた鋸と握った手とが一体となって運動しなければ、切るという目的を達成することはできない。
手で操る行為は道具時代から機械時代まで続いた。たとえば初期の旋盤作業をみると、回転する材料を削るための刃は送り台に取り付けられていて、その送り台を移動させる作業は人間の手にゆだねられていた。しかもその操作はプラスマイナス(±)0.2ミリメートルあるいはそれ以上の精度を要求されていたため、送り台の送りには微妙な手の動作が必要である。つまり、手と送り台とが一体化されることによって、作業目的が達成されたのである。
[内田 謙]
第二次世界大戦後の急速な技術の発展は、操る世界を操作の世界に変えてしまった。オンONとオフOFFの世界の出現である。ボタンやスイッチを押すだけで、ある作業が遂行されてしまうのである。その世界では、手のもっているすばらしい働きも技能もあまり必要としない。この現象の出現は、人間と機械との対応関係を一変させてしまったといえる。人間が機械に立ち向かう構え方は一面的となり、ONはただ効用を取り出すことにすぎない。そこで要求されることは、手の器用さではなく、どうしたら人間の操作ミスを防ぐことができるかということである。また、手で操作されるクランクやレバーなどの制御機器類は、その操作に際してどのようにすれば操作ミスを防止できるかに重点が置かれるようになってきている。いわゆる人間工学の分野におけるマン・マシン・インターフェースman-machine interface(人間と機械の接触面)の問題である。
[内田 謙]
人間は言語と手を操ってさまざまの欲望を成就してきた。望むとおりにしたいというのは、人間の共通した願いである。しかし、その願いの多くは成就しないものである。この望みどおりにならない現象を望みどおりにしようとするための行為や技術を「制御」とよんでいる。今日のように科学技術の著しい進歩の世界では、これまでのように手の器用さや技能をもってしては対応できなくなっているのである。
これまで言語は人間同士の間の情報伝達の手段であったが、それが人間と機械との情報伝達の分野にも進出するに至っている。つまり人間の意志を機械やシステムに正しく伝えるための「言語」である。これは言語ばかりでなく、手指でボタンを押すという操作も、人間から機械への伝達手段にしかすぎなくなった。スイッチを押すことによる電気モーターの始動と停止を考えてみると、人間がスイッチを押すという動作によって、回そうとする意志がモーターに伝達されたことになる。そこには、手で操る行為はさほど重要ではなくなってきている。
情報の符号化が急速に進歩し日常化されつつある現在を「操作時代」とよぶことができよう。コンピュータ言語はその典型的な例である。かつて道具時代では、人間と道具とのインターフェースは、道具を操るために、その形態をどうくふうすれば、筋力というエネルギーを十分に活用できるか、また道具と手とが一体化でき、使いやすくなるか、という問題であった。ところが操作時代になると、たとえば手と操作具、ノブやスイッチ、レバーなどとの関係において、もちろん握りやすさなどの要因も問われるが、さらに重要なことは、それらの操作具が、見た感じや触った感じで、何を操作するのかがわかるような、識別確認を容易にするための対策である。つまり触覚情報の符号化である。操作を正確に誤りなく行うために、情報を符号化しておけば、操作のための訓練をする必要もなく、その操作具に慣れていない人が操作しても、操作に誤りが少なくなる。
[内田 謙]
大脳の発達と手の運動が密接な関係にあることはしばしば指摘されているが、今日のような技術社会では、操るための手の器用さをはぐくむ要因が失われつつある。手は物を操るだけの器官ではない。物をつくりだす器官でもある。ノワレが述べているように、手の働きと、考えることとは、直接に人間のもろもろの欲望と結び付き、同時に考えることの内容を深め、広げていった。いいかえれば、手を通して人間の活動と思考の範囲が広がるにつれ、手の働きの多様性が成長していったのである。ところが今日では、コンピュータの著しい発展により、作業現場はもちろんのこと、家事作業から遊戯場に至るまで、人間はボタンやスイッチを押すだけで、あとはその流れを腕組みして監視していればいいだけの世界が現出している。
つまり、手を使って操る必要がなくなってきているのである。手がつくりだした機械が、手の働きの多様性を奪いつつある。おそらく、このような世界は、今後も継続されるであろう。人間は一度獲得した楽な世界を手放して、「手を汚して、手を使おう」としないからである。
大脳の発達を促す手の多様性は、いま述べた「手を汚し、手を使う」ことから生まれる。コンピュータの世界のなかで、われわれは手を使う場を獲得して、ふたたび「操る」世界のなかで、物をつくりだす手をみいだす必要があろう。このことは、きたるべき時代への創造と、21世紀にかけて人間を取り巻く環境への適応のためにも、新しい意味をもつものであることを忘れてはならない。
[内田 謙]
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