千葉県成田市にある真言宗智山派の大本山。成田山明王院と号し,通称成田不動として親しまれる。寺伝によれば,939年(天慶2)平将門が関東に反乱を起こすと,朱雀天皇は直ちに討伐の兵を遣わすとともに,京都広沢遍照寺の僧寛朝に天国の宝剣を授け,朝敵降伏の護摩を修するよう命じた。寛朝は京都の高雄山神護寺の不動尊像と宝剣を捧持し,海路東国に下って現成田市内の公津ヶ原に地を選び,ここに尊像を安置して21日間にわたり朝敵降伏の祈禱を修した。ときに霊験著しく,満願の日ついに将門は討たれ兵乱も治まった。寛朝が再び尊像を捧持し都へ帰ろうとすると,ふしぎにも尊像は磐石のごとく動かず,長くこの地にとどまり東国の逆徒を鎮撫して信者に利益を施さんと寛朝に告げた。事の次第が天皇に伝えられると,やがてこの地に尊像を安置する堂宇が建立され,神護新勝寺と名づけ東国鎮護の霊場となした。その後中世に至り寺は不動作の地に移るが,永禄年間(1558-70)成田村に不動尊を遷座したと伝えられる。当寺の本格的な発展は元禄(1688-1704)以降のことで,新たに佐倉城主になった稲葉正通の外護(げご)と中興第1世と称される照範の手腕によるところが大きい。1705年(宝永2)稲葉氏より成田村囲護台の畑地50石を寄せられるとともに,堂塔も整備された。07年には慶長以来の弥勒寺末を離れて,嵯峨大覚寺の直末となり,さらに京都醍醐派別格本山の金剛王院兼帯の令旨を受けるなど,寺格も昇進した。開帳が始まるのもこのころからで,江戸で最初に出開帳が行われたのは1703年(元禄16)のことである。〈江戸にて開帳あるに何時にても参詣群聚するは善光寺の弥陀と清凉寺の釈迦仏また成田の不動などなり〉と《嬉遊笑覧》にあるように,これより江戸出開帳の三本指に数えられるほど人気を集めた。また歌舞伎役者市川団十郎は代々屋号を〈成田屋〉といい,初世以来当不動尊への信仰が厚く,不動尊霊験記の上演もあったから,その霊験は広く庶民の間に喧伝され,講の発達にともない各地よりの成田詣も年々盛んになっていった。とくに天保(1830-44)以降,講社数は飛躍的に増加し,関東,東海,甲信地方へ広がっている。そして明治以降,その教線は全国に及び,別院や教会が各地に設けられ,今日の隆盛をみるにいたる。それとともに近代には,学校,図書館,感化院などの経営にみられるように,広く地方文化の発展に寄与するところが大であった。
執筆者:長谷川 匡俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
千葉県成田市成田にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の大本山。山号の成田山で知られ、成田不動と通称される。本尊の不動明王は、平安時代、嵯峨(さが)天皇の勅命により弘法(こうぼう)大師空海が刻して京都高雄山神護寺(じんごじ)に奉安されていたもの。939年(天慶2)平将門(まさかど)の乱のとき、朱雀(すざく)天皇は寛朝(かんじょう)大僧正に命じてこの像を下総国(しもうさのくに)公津ヶ原(こうづがはら)(成田市並木町)の堂宇に捧持(ほうじ)させ、三七日(21日間)朝敵調伏(ちょうぶく)の護摩(ごま)を修したという。翌940年に乱は平定、寛朝はこの地を霊場とし、新勝寺の寺号を授けられて開山。1705年(宝永2)中興の祖照範(しょうはん)により成田古薬師を経て現在地に移転、佐倉城主稲葉丹後守(たんごのかみ)から寺領・荘田(しょうでん)の寄進を受け、関東第一の霊場となる礎(いしずえ)を築いた。元禄(げんろく)年間(1688~1704)江戸深川に出開帳が行われたりして、しだいに成田詣(もう)でが民衆の習俗として定着し、不動尊信仰の中心として著しい発展を遂げた。
現在、境内に続く成田山公園を含め約22万平方メートルの寺域には、1968年(昭和43)に完成した新本堂のほか、釈迦(しゃか)堂・光明堂(旧本堂)、三重塔、仁王門、額堂、奥の院などが建つ。1983年に完成した高さ58メートルの大塔内には密教美術の粋を誇る諸尊像が安置されている。歴代の住職が教育文化福祉事業に力を入れ、学校、幼稚園、図書館、児童養護施設、郷土史料館なども設立するほか、全国に8別院と多くの末寺を有する。元朝(がんちょう)大祈祷(きとう)会、初不動、節分会(せつぶんえ)、祇園会(ぎおんえ)、納不動など年中行事も多い。年間を通して参詣(さんけい)者が絶えることなく、諸願成就を祈る人々には護摩修行をして護摩札が授けられる。
[大鹿実秋]
『村上重良著『成田不動の歴史』(1968・東通社出版部)』▽『大野政治著『成田山新勝寺』(1978・崙書房)』
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千葉県成田市成田にある真言宗智山派の別格大本山。成田山と号す。通称は成田不動とも。寺伝によれば,940年(天慶3)に平将門の乱を鎮めるため,京都遍照寺の寛朝(かんちょう)が神護寺護摩堂の本尊である不動明王像を奉じて下総に下向し,祈祷を行ったことに始まる。元禄年間に寺基を現在地に移転し,佐倉藩主や桂昌院の庇護を得て大いに栄えた。1703年(元禄16)から幕末まで通算11回を数えた江戸出開帳や,歌舞伎役者市川団十郎が屋号を成田屋として「不動尊霊験記」を上演したことなどで成田不動信仰が広まり,江戸庶民の成田詣が盛んになった。本尊の木造不動明王像および二童子像は鎌倉後期の作で重文。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…市域は両総台地に広がり,西端に印旛(いんば)沼がある。中心地の成田は不動明王を本尊とする成田山新勝寺の門前町で,近世中期から不動尊信仰が江戸を中心に広まった。1897年成田鉄道(現,JR成田線)が,1926年には京成電鉄が開通し,参詣客が多くなったが,近年は東関東自動車道が通じるなど自動車交通が発達したため日帰り客がほとんどとなった。…
※「新勝寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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