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明兆 みんちょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

明兆
みんちょう

[生]文和1(1352).淡路
[没]永享3(1431).8.20.
南北朝時代室町時代初期の画僧。字は吉山,また終生東福寺の殿司 (でんす) 役にとどまったため兆殿司と呼ばれ,同寺のため多くの仏画や頂相 (ちんぞう) を制作した。巨大な伽藍にふさわしい大作が多く『五百羅漢図』 (1386) ,『大涅槃図』 (1408) ,『達磨蝦蟇鉄拐 (だるまがまてっかい) 図』3幅,『聖一国師像』などは有名。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

明兆

淡路国津名郡物部庄(ものべしょう)(現・洲本市)で生まれた。幼少の頃に西来寺に出家し、三原郡八木(現・南あわじ市)の安国寺大道一以(だいどういちい)和尚のもとで修行しながら絵を学んだ。その後、京都・東福寺の管長になった大道和尚について京に上り、東福寺の専属絵師に。室町時代の画僧、雪舟に影響を与えたとの説もある。

(2012-08-21 朝日新聞 朝刊 淡路 1地方)

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デジタル大辞泉の解説

みんちょう〔ミンテウ〕【明兆】

[1351ころ~1431]室町初期の画僧。淡路の人。字(あざな)は吉山。号、破草鞋(はそうあい)。東福寺殿司(でんす)となり、兆殿司ともよばれる。宋・元の画風を研究、肥痩(ひそう)のある墨線とやや暗い色調による力強い画風を確立し、多くの仏画や頂相(ちんぞう)を描いた。

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百科事典マイペディアの解説

明兆【みんちょう】

室町初期の東福寺の画僧。淡路の人。別号破草鞋(はそうあい)。東福寺の殿司(でんす)職につき,俗称兆殿司。濃彩の仏画肖像画を本領とし,伝承作品《渓陰小築図》などから水墨の山水画・禅林肖像画にもひいでたと思われる。
→関連項目蝦蟇鉄拐赤脚子禅宗美術霊彩

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

明兆 みんちょう

1352-1431 南北朝-室町時代の画僧。
文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年生まれ。大道一以に師事して京都東福寺にはいり,同寺に多数の仏画,道釈画,頂相(ちんぞう)をのこした。殿司(でんす)職をつとめ,兆殿司と通称される。作品に「五百羅漢(らかん)図」「大涅槃(ねはん)図」など。詩画軸「渓陰小築図」(国宝)も明兆筆とつたえられる。永享3年8月20日死去。80歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。字(あざな)は吉山。号は破草鞋(はそうあい)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

明兆

没年:永享3.8.20(1431.9.26)
生年:文和1/正平7(1352)
南北朝から室町初期の画僧。道号は吉山。破草鞋とも号す。通称兆殿司。淡路島生まれる。幼時に淡路安国寺の開山大道一以のもとで修禅するが,画事に熱中したため師より破門を伝えられた。破草鞋の号は,師に捨てられた自分を破れた草鞋にたとえたという。延文1/正平11(1356)年,京都東福寺に昇住する大道に従い上京。東福寺では終生殿司(堂の管理)の職にあり,兆殿司の通称で呼ばれ,東福寺のために多くの仏画や道釈画(道教,仏教に題材をとった人物画)を制作している。最初の画作の記録は,永徳3/弘和3(1383)年から至徳3/元中3(1386)年の五百羅漢図50幅(現在このうち45幅は東福寺蔵,2幅は根津美術館蔵)である。この制作中,郷里の母親の病の知らせを受けるが帰郷の暇がなく,自画像を描いて送ったという(東福寺蔵「自画像」模本による)。年代の判明する作品に「大道一以像」(1394,奈良国立博物館蔵),「普明国師像」(1404,光源院蔵),「大涅槃図」(1408,東福寺蔵)「四十祖像」(1427,東福寺蔵)などがある。宋,元の仏画,道釈画を範とした作品が多いが,その表現主義的ともいえる豪放な筆線に特色がある。「白衣観音図」「達磨・蝦蟇鉄拐図」(東福寺蔵)は,このような特色が発揮された代表作である。詩画軸の名品「渓陰小築図」(金地院蔵)には明兆筆の伝承があるが,水墨による山水図を手がけたという確証はない。弟子に霊彩,赤脚子らがある。<参考文献>『日本美術絵画全集』1巻,『水墨美術大系』5巻

(山下裕二)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

みんちょう【明兆】

1352‐1431(正平7∥文和1‐永享3)
室町初期の東福寺の画僧。淡路島に生まれ,若くして同地の安国寺に入り,大道一以(1289‐1370)の弟子となり,師より吉山(きつさん)明兆の道号と法諱(ほうき)を授けられた。安国寺において画ばかり描き禅の修行をおこたったので,師から師弟の縁を切られ,大道に捨てられた破れ草鞋(わらじ)にたとえ,自ら〈破草鞋(はそうあい)〉と号し,後に〈破草鞋〉の印章を用いた。その後,彼の画才が認められ,大道和尚に従って東福寺にのぼり,終生,堂守の殿司(でんす)の職にあり,〈兆殿司〉と呼ばれ,画僧として活躍した。

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大辞林 第三版の解説

みんちょう【明兆】

1352頃~1431) 室町初期の画僧。淡路島の人。姓は吉山、号は破草鞋はそうあい。東福寺の殿司でんすとなったため兆殿司とも。元の顔輝の画に学んだといわれ、墨の線描きと強い色彩を調和させた手法で多くの頂相ちんぞうや道釈画を描いた。作「五百羅漢図」「聖一国師像」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

明兆
みんちょう
(1351―1431)

室町初期の画僧。諱(いみな)は吉山(きちざん)。号は破草鞋(はそうあい)。淡路(あわじ)国(兵庫県)に生まれ、若くして大道一以(だいどういちい)(1289―1370)の門に入り、のち師とともに上洛(じょうらく)、東福寺に入寺して堂守の殿主(でんす)職についたので、兆殿司(ちょうでんす)と俗称される。終生東福寺の絵仏師的な立場を貫き、同寺のために多くの仏画や頂相(ちんぞう)を制作、それらの代表作はいまも東福寺に残る。1386年(元中3・至徳3)に完成した『五百羅漢図』50幅(現在45幅は東福寺、2幅は根津美術館)をはじめ、『聖一国師(しょういちこくし)像』『大涅槃(だいねはん)図』(1408)、『達磨蝦蟇鉄拐(だるまがまてっかい)図』(いずれも東福寺)などの大作がそれで、宋元(そうげん)仏画に範をとりながらも、肥痩(ひそう)のある強い墨線と、やや色調の暗い色彩とを用いて、独自の力強い画風を完成させている。こうした作風は、一之(いっし)や赤脚子(せっきゃくし)、霊彩(れいさい)などに受け継がれ、如拙(じょせつ)―周文(しゅうぶん)の系統を引く相国寺派に対し、東福寺派とよばれている。後年、明兆は仏画以外に純然たる水墨画にも筆を染め、『白衣観音(びゃくいかんのん)図』(静岡県、MOA美術館)や『渓陰小築図』(京都・南禅寺金地院(こんちいん)、国宝)などの作がある。なお東福寺には、明兆が病の母へ描き送ったと伝えられる自画像の模本が現存し、自画像のきわめて早い作例として注目に値する。[榊原 悟]
『金沢弘著『日本美術絵画全集1 可翁/明兆』(1981・集英社)』

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世界大百科事典内の明兆の言及

【自画像】より

…プラハ大聖堂の彫刻家P.パルラーの自刻像(1374‐85)は現存するもっとも古いものの一つで,フィレンツェ洗礼堂扉のギベルティのそれ(1426)などとともに,みずから関与した記念碑的建築や彫刻作品の一隅に自身の肖像を残したいとする念願の表現である。中国や日本では自画像の観念は西洋よりも希薄で,画僧明兆が淡路島に住む母親へ送ったという自画像(14世紀中ごろ)などは例外的である。 自画像の制作に鏡を用いることは15世紀初頭のフランスの写本画に女性が鏡の前に座って自身の姿を描くさまが図示されていること,またデューラーの1484年の銀筆素描の銘文に鏡像である旨が記されていることなどから明らかである。…

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