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禅宗美術 ぜんしゅうびじゅつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

禅宗美術
ぜんしゅうびじゅつ

鎌倉時代から南北朝時代,さらに室町時代に,幕府の庇護のもとで,禅宗寺院を中心に新しい中国風文化の一端として展開,成熟した中国風美術。禅林美術とも称する。作品は禅宗の教義に直接的に基づくというよりは,美術の表現内容そのものが禅宗的精神に受容されるかぎりにおいて,美術と関連づけられる。絵画では,まず頂相 (ちんぞう) と呼ばれる禅僧の肖像画があげられる。これは師資相承のあかしとして師から弟子に与えられるもので,像主の外貌ばかりでなく,精神の鋭さまで伝えようとする充実した描写力が要求された。入宋した日本僧が持帰った宋画が基本となって,13世紀後半には日本での制作が始り,次第に和風化をみせながら室町時代まで多量に制作された。同様に彫刻においても禅宗寺院に祀る祖師や開山の像が造られた。当時の中国では,禅林生活を飾る絵画は水墨画と多く結びついていた。宋元画が将来され,これに基づく日本の禅僧らの墨技も 14世紀に入って本格化し,いわゆる「漢画」様式の先駆となった。黙庵霊淵可翁などがそのすぐれた例である。主題としては従来の仏画に禅的解釈が加えられ,白衣観音,出山釈迦,羅漢などが制作され,さらに中国禅宗の第一祖である達磨以下の祖師像,寒山拾得,布袋などの道釈人物画が禅的精神に合致するものとして制作,鑑賞された。応永年間 (1394~1428) には,禅僧の詩文に水墨画を組合せた詩画軸が隆盛となった。相国寺の画僧,如拙は南宋院体画を取入れた山水表現に新領域を開き,同じく周文は禅林画壇の中心となって,周文様山水詩画軸を完成させた。山水詩画軸の隆盛には五山文学に示されるような,禅僧たちの自然観や隠逸趣味が大きく反映している。禅宗寺院建築では,中国宋代の建築様式が禅宗とともに移入され,唐様あるいは禅宗様として定着し,独特の制式によった堂宇が数多く営まれた。書院造枯山水庭園なども,禅宗寺院の精神生活と深く結びついて生じたものである。

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百科事典マイペディアの解説

禅宗美術【ぜんしゅうびじゅつ】

禅宗では偶像を崇拝せず,堂宇の荘厳や仏像彫刻を必要としなかったので,禅宗の実践的な教理を表現するものとして,絵画や庭園が禅僧の余技の形でつくられた。中国では臨済,洞山らが現れた8―9世紀(唐代)には美術作品もつくられていたらしいが現存作品はなく,宋代に入って多数の傑作を生んだ。
→関連項目墨跡

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世界大百科事典 第2版の解説

ぜんしゅうびじゅつ【禅宗美術】

禅宗寺院を中心に,禅僧たちが日常の修行や生活に用いた道具や施設のうち,直接間接に禅の精神に関連の深い作品を総称して,禅宗美術という。禅宗は,不立文字(ふりゆうもんじ),教外別伝(きようげべつでん),直指人心(じきしにんしん),見性成仏(けんしようじようぶつ)といって,日常の修行はもとより平常の生活のなかに自己本来の面目(めんぼく)を会得することを目的とする。一方,禅宗の教義は師資相承せらるべきものであるから,禅徒はすぐれた師に直接見参して教導を求め,自らの体験によって悟道の熟達をはかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

禅宗美術
ぜんしゅうびじゅつ

禅宗の思想信仰に基づいて生み出された仏教美術。坐禅(ざぜん)と瞑想(めいそう)によって仏心を悟ることを目標とする禅宗は、6世紀初めにインドから中国に伝えられ、伝統的な道教と融合して発展した。とくに唐代になって国家仏教が衰えると、主として在野に広まり、五代から宋(そう)代にかけては江南・蜀(しょく)地方などにも普及、やがて文人の教養に不可欠のものとなって、書画や詩文にも大きな影響を与えた。禅宗は自己の内面に悟りを得ることを至上の目的とするから、従来の仏教美術のように仏像や仏画の制作はあまり行わず、悟りの境地を直観的に把握する要素があれば、画題にとらわれず、禅宗の美術として鑑賞、あるいは創作した。江南や蜀地方で盛行をみた水墨画は禅宗絵画の土台となり、道釈(どうしゃく)画(道教や仏教を主題にした絵画)や観音(かんのん)・羅漢などが盛んに描かれ、後世へ受け継がれていった。
 南宋の梁楷(りょうかい)はいわゆる減筆(げんぴつ)体の道釈・人物画をよくし、宋末元初の禅僧牧谿(もっけい)は道釈・人物のほか山水・花鳥画もよくした。元代になると因陀羅(いんだら)と雪窓(せっそう)が現れて画才を発揮、とくに雪窓の墨蘭(ぼくらん)は有名で、日本の絵画にも影響を与えている。また、禅宗は自己の体験によって悟りに達するほか、師資相承(ししそうしょう)を重んずるため、第一祖の菩提達磨(ぼだいだるま)をはじめとする祖師像や、直接の師の肖像である頂相(ちんぞう)が尊重され、絵画と彫刻の両分野に迫真の画像や彫像がつくられた。
 日本へは、鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)が臨済禅を、道元が曹洞(そうとう)禅を伝え、同時代末から南北朝にかけて中国禅僧の渡来する者も少なくなかった。また、宋から帰朝した多くの日本人僧によって禅宗は隆盛の一途をたどり、室町幕府は鎌倉と京都にそれぞれ五山を設け、禅林文化の発展に力を注いだ。そのため、絵画、庭園、茶の湯に至るまで枯淡幽玄を表すものが、禅の精神と一致するものとして重んじられ、禅林の美術はこの時期に空前の盛況をもたらした。鎌倉末期には、可翁(かおう)や黙庵(もくあん)のように元に渡って禅と絵を学んでくる者もあり、水墨画の発展は、その初期には禅宗の受容と並行していた。しかし、愚渓(ぐけい)、明兆(みんちょう)のような専門の画家が京の禅林から輩出するに至り、室町時代になると、主として画僧の筆になる詩画軸という墨画が五山を中心に流行し、禅僧の教養の一つとなった。
 こうした中国の禅のあとを追いながらも、美術の分野では、中国絵画一辺倒に飽きたらず、日本独自の感覚を生かした水墨画の制作に情熱を燃やした画僧も少なくない。雪舟(せっしゅう)や狩野(かのう)派の画家がそれで、禅宗寺院の襖絵(ふすまえ)や屏風(びょうぶ)に、日本の自然を取り入れた山水の大画面を描いた。
 書では、禅僧の筆になるものを墨跡(ぼくせき)と称するが、禅僧の悟入(ごにゅう)の境地を示すものとしてもっともたいせつに扱われた。中国からの舶載品をはじめ、わが国の禅林の高僧の手になる名筆も多く、とくに茶の湯の世界で珍重された。
 建築では、中国宋代の建築様式が禅宗とともに伝えられ、これを禅宗様(かつては唐様(からよう)と称した)という。鎌倉・京都の五山の禅寺はこの様式を取り入れて建てられたが、初期の遺構としては鎌倉・円覚(えんがく)寺の舎利殿(しゃりでん)(国宝)が名高い。また建築に付属した庭園では、池泉を設けない枯山水(かれさんすい)がもっとも禅の真髄を象徴したものと考えられ、優れたものが多数作庭された。
 このほか、宇治の万福寺などに伝わる美術は、江戸初期に新たに黄檗(おうばく)宗とともに輸入されたもので、この系統のものは黄檗美術とよんで区別している。[永井信一]

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