末広町
すえひろちよう
[現在地名]中区栄二―三丁目・大須二―三丁目
熱田へ通じる幹線道路本町筋にあり、大久保見町の南、門前町の北に位置する。花屋町と天道町との間の三丁余をさす(尾張志)。ただし花屋町角より東側二軒だけは大久保見町、三軒目から東照宮神輿の渡御する宿院(御旅所)までは町内。若宮八幡社より南一二、三軒は門前町の区域に属した。上之切・中之切・下之切の三つに分けられた(末広町話)。清須越しの町ではない。開府当時は並木の往還が続き、三軒茶屋とよばれた三軒の煮売店がみられる程度(尾張名陽図会)。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]函館市末広町
明治一四年(一八八一)七月に内澗町の全域と地蔵町の一―三丁目を併せて誕生した町(「事業報告」第一編)。成立当時、発展する函館の中心街であったので、さらなる発展を願って末広町としたという。明治二〇年には戸数三六三・人口一千六七六、同三〇年には戸数三三二・人口一千二六〇(伊藤鋳之助文書)。この頃から町の東端部の十字路一帯は十字街と通称され、函館を代表する繁華街となった。明治四二年の町域面積は二万四千八〇四坪(函館区統計)。大正九年(一九二〇)の第一回国勢調査時には世帯数二九九・人口二千四〇七。昭和三〇年(一九五五)の国勢調査では世帯数二九七・人口一千三三四、就業人口比で商業関係者が四四パーセント、サービス業関係者が二一パーセントを占めていた。
末広町
すえひろちよう
千本釈迦堂(大報恩寺)の東にあり、町のほぼ中央を南北に六軒町通が通り、南側は五辻通。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には、六軒町通に沿って「釈迦東北半町」「釈迦東南半町」があり、千本釈迦堂の東門から東行する通りに沿って「釈迦堂東ノ口町」が記される。寛文五年(一六六五)刊「京雀」には「釈迦北東町」「しやか堂の町」「釈迦堂東寺町」と記す。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]江東区石島・千石一丁目
横川(大横川)東岸の町屋で、深川築地二四ヵ町の一。深川末広町とも称した。片側町で、南北を石島町に挟まれ、東は三卿の一橋家抱地。文政町方書上によれば、もとは十万坪のうちかとも思われるが、元禄一二年(一六九九)木挽町二丁目(現中央区)の薪置場が御用地となったため、所持していた久右衛門・佐兵衛・文右衛門ら八名へ代地として当地が与えられた。
末広町
すえひろまち
[現在地名]松山市末広町
松山城下町の南部の町。南北に通り、南端は郷村に通ずる町筋とその周辺を含む。東は湊町・春日町、西は久保町・藤原村、南は藤原村、北は出淵町に接する。初め藤原末之町とよんだことは、元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「外巡町弐拾三町」のなかに藤原末之町とあり、同書後代の注記に「末広町と改」とあるので明らかである。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]北区末広町
明治六年(一八七三)成立した町。江戸時代には西成郡川崎村の字新太郎地(通称寺裏)と天満東寺町の西部分で、東は天満郷綿屋町の東筋、南は同北森町、西は同町の西筋に挟まれる地域であった。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図には綿屋町北筋の北から東にかけて松平新太郎すなわち備前岡山藩池田家蔵屋敷が天満堀川に面して記される。
末広町
すえひろまち
[現在地名]金沢市末広町
子来町の東から卯辰山を紆曲昇降して鈴見村に出る通りに沿う町。長さは約七町(皇国地誌)。慶応三年(一八六七)卯辰山の頂上が開拓され、明治三年(一八七〇)町立てされた(金沢古蹟志)。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]岐阜市末広町・新桜町
明治初年に成立した南北に延びる両側町。明治二二年(一八八九)の岐阜市街全図(西垣家蔵)によれば靭屋町・米屋町の東側に並行して延び、町並中ほどから西の両町と結ぶ横道がある。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]小樽市末広町・赤岩一丁目
大正四年(一九一五)の小樽区の町名改正に伴い手宮裏町より分立、末広町が成立。梅ヶ枝町の東にある。
末広町
すえひろちよう
[現在地名]釧路市末広町
昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(西幣舞)。昭和三年の幣舞橋の架橋に伴い市街地化が進む。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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末広町
すえひろちょう
東京都千代田区北東部の旧町名。現在の外神田3丁目付近で東京地下鉄銀座線末広町駅にその名が残る。下町にありながら江戸時代に一度も火災にあわず,運がよいということから,明治になって将来の発展を願って命名されたという。電気器具関係の問屋が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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