デジタル大辞泉 「最後の晩餐」の意味・読み・例文・類語
さいごのばんさん【最後の晩餐】[絵画]


イエス・キリストが十字架につけられる前の晩に12人の弟子たちとともに行った晩餐のこと。〈主の晩餐〉とも言う。《マルコによる福音書》14章17節以下の記事によると,この晩餐の席上で,イエスは自分を裏切ろうとしている者(イスカリオテのユダ)がいることを指摘するとともに,パンとブドウ酒をとって,それらが自分の体であり,多くの人のために流す契約の血であると言った。同様の記事は《マタイによる福音書》《ルカによる福音書》にもあり,これらの共観福音書では,〈最後の晩餐〉が過越(すぎこし)の食事(過越の祭)と結びつけられている。このことは,過越の小羊の血がイスラエルの罪を贖(あがな)ったように,イエスの十字架の死が人々の罪の贖いのための死であることを指し示している。《ルカによる福音書》22章19節,《コリント人への第1の手紙》11章24節にあるように,イエスの記念としてキリスト教会において守られているこの晩餐の儀式は,洗礼とともに重要なサクラメントとされ,後者がただ1度新生のしるしとして与えられるのに対して,前者はキリストの血による新しい契約,キリストとの交わりのしるしとして繰り返して与えられる。
→聖餐
執筆者:川村 輝典
イエス・キリストの受難伝の重要な主題の一つ〈最後の晩餐〉の美術表現は比較的遅く,5世紀に始まる。それ以前の初期キリスト教時代には,聖餐のサクラメントはパンと魚または他の主題(〈カナの婚礼〉〈パンと魚の奇跡〉)によって暗示的に表現されていた。初期の説話的表現では,キリストと十二使徒は古代の宴の習慣に従い,長椅子に横たわる姿勢で半円形あるいは馬蹄形のテーブルを囲んでおり,その上には聖餐の食物としてパンとブドウ酒の入った聖杯,あるいは魚や小羊(過越の祭に食べた犠牲の動物)などが置かれる。ビザンティン美術においては,サクラメントの意味を強調するために,キリストが弟子たちに聖体とブドウ酒を与えるという特殊な表現(〈使徒の聖体拝領〉)が用いられることもある。一般に〈最後の晩餐〉が含む二つの内容,すなわち〈聖餐の制定〉と〈ユダの裏切りの予告〉は明確に区別して,異なる表現がされる。後者においては,イスカリオテのユダは皿に手を伸ばす(マタイなどの福音書による)か,キリストからひと切れの食物を与えられる(《ヨハネによる福音書》による)ことによって,あるいはその孤立した位置によって明示される。また彼のみ光輪をもたないか,黒い光輪をつけることによっても他の使徒から区別される。テーブルの形は円形あるいは長方形(13世紀以降この形が支配的となる)に描かれ,キリストは多くの場合中央に座る。師に愛された弟子のヨハネはキリストの胸に寄り添うようにしてそのそばに座り,眠っていることもある。〈最後の晩餐〉は内容的関連から修道院の食堂を飾る壁画の主題に選ばれることが多く,その代表例にレオナルド・ダ・ビンチのフレスコ画(ミラノ,サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会)がある。〈聖餐の制定〉の意味をもつ表現はD.バウツの〈聖餐の祭壇画〉など,中世後期以降に作例が多く,〈使徒の聖体拝領〉の形もフラ・アンジェリコなどの作例がある。反宗教改革以後はローマ・カトリック教会の意向を反映して,聖餐の意味を強調した表現が主として用いられる。
執筆者:荒木 成子
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イエス・キリストが受難と死の前夜に使徒たちとともにした晩餐。『新約聖書』の「マタイ伝福音書(ふくいんしょ)」(26章20~29)、「マルコ伝福音書」(14章17~25)、「ルカ伝福音書」(22章14~23)の3福音書が、このできごとを報じている。それによれば、イエス・キリストは捕らえられ、十字架につけられる前日、12人の使徒と夕食をともにし、ユダの裏切りを皆に告げ、またパンとぶどう酒を祝し、「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流すわたしの血、契約の血だからである」ということばで、聖体の秘蹟(ひせき)を制定した。
[大谷啓治]
レオナルド・ダ・ビンチの壁画(ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂)に代表されるように、美術のうえでも重要な主題となっている。福音書の記述に明らかなように、晩餐のエピソードは、前半ではイスカリオテのユダの裏切りの告発が語られ、ユダが去ったあとの後半部分は聖餐の儀式を象徴したものとなっている(マタイ26章、マルコ14章、ルカ22章)。12世紀からルネサンス期へと至る時代の晩餐図をみると、西ヨーロッパの美術では、「アーメン、わたしは言う、あなた達(たち)の一人がわたしを売ろうとしている」というイエス・キリストのことばに揺れ動く使徒たちの劇的な場面として描かれている。
一方、東ヨーロッパのビザンティン美術では、福音書の記述の後半部分に焦点をあわせて、聖餐の儀式としての晩餐図が描かれている。しかし西ヨーロッパにおいても16世紀後半のトレント公会議ののちは、ユダの裏切りの告発という史伝的な場面設定をやめて、聖餐図としての最後の晩餐図に傾いてゆく。
[名取四郎]
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キリスト受難前の最後の弟子たちとの夕食。そこで聖餐(聖体)の秘蹟(ひせき)(サクラメント)が定められた。古代以来美術の題材となり,レオナルド・ダ・ヴィンチの作品(1497年)が最も有名である。
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…透視図法は,視点と物体と画面の相対性に基づいて決定されるもので,この技法の発展は,自我(視点)が物体(自然界)を見ている世界を窓(画面)としてとらえることを意味する。このような視界の典型例がレオナルド・ダ・ビンチの《最後の晩餐》である。しかし,レオナルドの空間論は同時に線的遠近法の危機を示すものであった。…
…ミラノ行きの主要な理由は先代の君主フランチェスコ・スフォルツァの記念騎馬像の建立であったが,これは多くの習作スケッチのみが残り,着工されずに終わった。現存する絵画作品のうち代表的なものは,《岩窟の聖母》(1483‐86)と《最後の晩餐》(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院の食堂壁画。1495‐97)である。…
…ガリラヤのカナCanaという町の婚礼に聖母マリアや弟子たちとともに招かれたイエスは,宴のブドウ酒が尽きたことを聖母から知らされ,6個の水がめに注いだ水を良質のブドウ酒に変える。この奇跡はパンと魚の奇跡とともに最後の晩餐を示唆するものと解釈され,早く(4世紀ころ)から美術に表現された。キリストが手に持った杖で傍に並べられたかめにふれている表現(ローマ,サンタ・サビーナ聖堂の木製扉の浮彫など)が見られ,やがて聖母の姿が加わり,10世紀ころから,この主題はテーブルを囲む祝宴の情景として表現されるようになった。…
…ここに最初の教会的自覚の誕生があるといえる。地上のイエスとのつながりは,〈最後の晩餐〉を宗教的生の象徴としての愛餐(アガペー)という共同食事に結びつけることで保たれた。この象徴化は精神化と物質化とを同時にもっているが,サクラメントの制定という法的なものではない。…
…《ヨハネによる福音書》は父親の名はシモン(6:71ほか)で,ユダ自身はイエスの弟子グループの会計係であったと伝えている(12:6)。《マタイ》《マルコ》《ルカ》のいわゆる〈共観福音書〉の叙述では,金銭と交換にイエスをひき渡すことをあらかじめ祭司長たちに約束し,〈最後の晩餐〉の後イエスほか一同がゲッセマネの園に来たところで“接吻をもって”裏切っている。この叙述の細部はともかくとして,裏切りの事実性は疑われえない。…
※「最後の晩餐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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