本照寺(読み)ほんしようじ

日本歴史地名大系 「本照寺」の解説

本照寺
ほんしようじ

[現在地名]高槻市富田町四丁目

浄土真宗本願寺派、富山または富寿栄山と号し、本尊阿弥陀如来。正保(一六四四―四八)以後に富田御坊ともよばれた。寺伝によると、本願寺七世存如、またはその常随式部卿正信が応永三四年(一四二七)開基したとされる。しかし開基時点の寺号は本遇ほんぐう寺であった(本願寺蔵の慶長一六年坊主衆聞書)ようで、のち光照こうしよう寺と改号されたと推測され、本願寺一三世良如のとき本照寺と改号した。一方、当寺は当初高槻にあって光照寺と号し、高山右近の圧迫により本願寺九世実如の時、富田に移り本照寺と改号したといわれるが(大阪府全志)、この移転を傍証する史料はなく当初から富田にあったようである。当寺には年紀を欠くが、「富田庄内ノ男女老少」に和光同塵を説いた本願寺八世蓮如の消息がある。明応八年(一四九九)三月二六日の蓮如の葬送には四代正専が近仕した(空善記)。天文元年(一五三二)一二月二三日には郡内の武士などが富田道場(現教行寺)や一向宗信徒の家を焼払っているが、当寺の被害は不明。

本照寺
ほんしようじ

[現在地名]西浅井町大浦

三浦山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。慶長七年(一六〇二)五月の由緒書(寺蔵文書、以下同文書は省略)によれば、空了が蓮如に帰依、延徳元年(一四八九)実如より寺号・木仏・六字名号等を許された。二代了誓は顕如・教如に勤仕し、天正八年(一五八〇)四月顕如の摂津石山本願寺(大坂御坊)より鷺森さぎのもり(現和歌山市)への退去にも随従したという。空了と妻の尼祐妙が永正一五年(一五一八)二月実如より法名を下付されており(法名下付状)、同年以前には草創されていた。

本照寺
ほんしようじ

[現在地名]韮崎市竜岡町下条東割

下条東割しもじようひがしわり集落の東部、釜無川右岸の河岸段丘上にある。法永山と号し、日蓮宗。「甲斐国志」には次のような草創伝承がみえる。文永年中(一二六四―七五)日蓮が佐渡配流の途次に当地で暴風雨に遭い、休んだ松に掛かっていた藤蔓を筆にして本尊の曼陀羅を書いた。のちに精舎を建て本尊を安置し、嘉暦四年(一三二九)日興が弟子日順を遣わして寺を建立したのが始まりというものである。慶応四年(一八六八)の由緒書(寺記)では文永年間、佐渡に配流された日蓮のもとへ行こうとした日興が当地で雨に降られ、御堂の前に生えていた藤の下で一宿、日興はここを心願の寺として嘉暦五年(元徳二年)弟子の日順に命じて寺を草創したという。

本照寺
ほんしようじ

[現在地名]御調町市

雲雀ひばり城跡の東山麓に位置し、日蓮宗。城本山と号し、本尊法華法宝塔・釈迦多宝如来。雲雀城主池上氏の菩提寺と伝える。寺伝によると、永正元年(一五〇四)日親を開基として細川政元(勝元の子)が建立、天正一一年(一五八三)池上丹後守が菩提寺と定めたが、宝永四年(一七〇七)焼失、翌年再建という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「本照寺」の解説

本照寺

(東京都練馬区西大泉3-11)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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