栗原郷(読み)くりばらごう

日本歴史地名大系 「栗原郷」の解説

栗原郷
くりばらごう

笛吹川の支流川の右岸沿いに比定される中世の郷。「和名抄」に記載される巨麻こま栗原くりはら郷の後身とする説がある。応永六年(一三九九)二月七日の続吉寄進状(大善寺文書)の追筆部分に「栗原」とみえ、当地住人の衛門六郎続吉が前々年と前年の年貢一五貫文を未進したため、その抵当として歌田郷のうちふわた八段を経田と三昧田として大善だいぜん(現勝沼町)に進上している。武田信成の子武続は当郷に館を構え栗原氏を称した。大翁だいおう寺は同氏代々の館跡と伝える。文安二年(一四四五)一二月二日、武田信通は亡父龍厳が継統院殿(武田信成)の菩提供養のため向嶽こうがく(現塩山市)に寄進した当郷内二町(年貢八貫文)を安堵しているが(「兵部少輔信通判物」向嶽寺文書)、信通を武続の子とする説がある。以後栗原氏は国人領主として東郡に勢力をもち、「一蓮寺過去帳」には享徳四年(一四五五)頃の一一月一五日供養の長阿弥陀仏に栗原対馬殿と注記されているのをはじめ、栗原の注記のある多くの人物が記載される。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」東急本・高山寺本とも「久利波良」の訓を付す。天平宝字五年(七六一)一二月二三日付の甲斐国司解(正倉院文書)に「坤宮官廝丁巨麻郡栗原郷漢人部千代」を、逃亡した仕丁の同郷漢人部町代の替えとして保良離宮に貢上するとあり、これに関連する翌六年六月頃の石山院奉写大般若経所解、および同年一二月二四日付の大般若経所解(ともに同文書)にも、漢人部千代の出身地を「甲斐国巨麻郡栗原郷」と注記している。当郷の遺称は現山梨市上栗原かみくりばら・下栗原とされるが、巨麻こま郡とはあまりにも隔絶した位置にあり、同様に巨麻郡等力とどろき郷の遺称も栗原のすぐ東隣に接する現東山梨郡勝沼かつぬま等々力とどろきに見いだされることから、この矛盾を解決するため古くから諸説が論じられてきた。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」所載の郷。現垂井たるい町に栗原の大字が残り、同地を中心とした垂井町南部一帯が郷域と考えられる。栗原は現養老ようろう郡と境を接しており、郷域は同郡にも及び、南宮なんぐう山に連なる山系の東側の平坦地で、杭瀬くいせ川支流のあい川右岸全域にわたっていた可能性が高い。垂井町地内では宮代みやしろ荒崎あらさき両地区で同一方向の条里遺構が確認されているが、明治期の地形図によると、栗原地区も両地区と同一規格の条里の中に含まれると推測される。栗原地区の野口のぐちには八之坪はちのつぼなどの小字名が残る。栗原の初見は「続日本紀」天応元年(七八一)七月一六日条にみられる右京人正六位上栗原勝子公など一八名に中臣栗原連の姓を与えた記事である。


栗原郷
くりはらごう

江戸期の栗原村一帯に比定される中世の郷名。南北朝期には富士浅間社(富士山本宮浅間大社)領で、康安二年(一三六二)正月一一日の駿河守護今川範氏書下および至徳元年(一三八四)一二月一二日の同今川泰範書下(ともに大宮司富士家文書)によって、勾金まがりかね(曲金)・栗原両郷の諸公事免除と使者の乱入が停止されており、公事免除は源頼朝以来とある。戦国期には臨済りんざい寺末の天沢てんたく寺が権利をもち、永禄九年(一五六六)九月三日に今川氏真が曲金・栗原両郷のうち代方一〇〇貫文・米方二〇石をこの年から天沢寺に寄進し(「今川氏真判物」清見寺文書)、同一二年正月一八日の臨済寺領・天沢寺領等書立土代(臨済寺文書)では天沢寺領として一色いつしき・栗原両郷の代方一〇〇貫文が確認される(曲金は米方二〇石とみえる)


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」諸本ともに訓を欠く。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「色麻しかま玉造、栗原、磐井(中略)各五疋」とあり、栗原駅は当郷に置かれたとみられる。中世に入り、「栗原」は栗原郡・栗原庄・栗原などとみえ、当郷との直接の関連はつかめないが、元弘四年(一三三四)二月晦日の陸奥国宣(留守文書)に「陸奥国二迫栗原郷内」とあり、留守家任に宛行われている。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」東急本は「久里波良」と訓を付す。「大日本史国郡志」は「今栗原村、属上夷守郷」と記す。「日本地理志料」は「原ノ郷」と称される宮内みやうち神宮寺じんぐうじ飛田ひだ(現新井市)地頭方じとうがた黒田くろだ箱井はこい(現上越市)の現上越市南部・新井市北部のせき川流域にあてる。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」高山寺本には「栗原」、東急本には「栗垣」とある。「濃飛両国通史」は郷名を「栗栖郷」とし、比定地を吉田よしだ川筋としている。同川筋とすることには検討の余地があるが、栗栖は現大和やまと町南部の山田やまだ地区に栗巣くりす地名が残り、また長良川に注ぐ栗巣川もある。この説は「日本地理志料」「大日本地名辞書」「郡上郡志」などの諸説とも一致し、郡内の郷を水系(川筋)別に比定していく立場からも、長良川上流部分の通称上之保かみのほ(現白鳥町・大和町・高鷲村)とよばれる部分にあてられる可能性が高い。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、クリハラであろう。江戸時代の本郷ほんごう村は栗原の本郷で、小栗原おぐりはら村・二子ふたご村など八村は栗原八ヶ村(以上現船橋市)などと称されたということから(葛飾誌略)、これらを含む一帯に比定される。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」高山寺本に「栗原」と記し、「久利波良」と訓じるが、刊本では「久利八良」と訓じる。ともに「くりはら」と読む。

「大日本地名辞書」は「詳ならず」としながらも「赤間関及び其北なる豊東下村などにあらずや」として、現下関市の市街地域を比定しているが、「防長地名淵鑑」は「粟野村・田耕村・殿居村・豊田中村(稲見を除く)の辺郷名を欠く。


栗原郷
くりはらごう

谷保やほ地区北部の字栗原を遺称地とする。慶長四年(一五九九)書写の廊之坊諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に栗原三郷と記される。「風土記稿」には上谷保かみやぼ・下谷保、本宿ほんしゆく屋敷分やしきぶん(現府中市)分倍ぶばい庄栗原郷に属すると記されている。この分倍庄は国府域の公領を示すものであろう。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、クリハラであろう。現八日市場市吉田よしだより出土の瓶子識に天平勝宝六年(七五四)九月一四日下総国栗原郷とみえるとして、吉田付近に比定する説がある(稿本県誌)。また「日本地理志料」は松蘿館本千葉系図にみえる栗原禅師観秀が現山武さんぶ芝山しばやま町境付近に住したこと、現同郡横芝よこしば栗山くりやまが郷名の転じたものと思われること、栗山は栗山川の河川流路が移動する以前は匝瑳郡域であったことなどにより、この一帯に比定する説がある。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」諸本に訓はない。旭川の支流備中川中流域の段丘面にある、現真庭まにわ落合おちあい町栗原一帯に比定される。「大日本地名辞書」は明治二二年(一八八九)成立の美原みはら村・関川せきがわ(現落合町)に比定し、大井おおい郷域と推定されるせき(現同上)付近も当郷に含める。


栗原郷
くりはらごう

「和名抄」に「栗原」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ、今ノ新治郡栗原村ナリ」とあり、現新治にいはり郡桜村栗原に比定する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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