根岸短歌会(読み)ネギシタンカカイ

デジタル大辞泉 「根岸短歌会」の意味・読み・例文・類語

ねぎし‐たんかかい〔‐タンカクワイ〕【根岸短歌会】

短歌結社。明治32年(1899)正岡子規が東京下谷区上根岸(現在の台東区内)の自宅で開いた短歌会に始まる。新聞「日本」、雑誌心の花」により、写生説に基づき、万葉風の復活を唱えた。子規没後機関誌馬酔木あしび」を発行、のち、「アララギ」派に発展

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精選版 日本国語大辞典 「根岸短歌会」の意味・読み・例文・類語

ねぎしたんかかい ねぎしタンカクヮイ【根岸短歌会】

短歌結社。明治三二年(一八九九)正岡子規を中心発足伊藤左千夫長塚節・蕨真・岡麓らが参加万葉集に学び、写生を重んじ、当時の短歌界の革新を目指した。子規没後その遺志をついだ同人たちの手で「馬酔木」「アララギ」等の同人誌が出され、歌壇の一大勢力になった。

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百科事典マイペディア 「根岸短歌会」の意味・わかりやすい解説

根岸短歌会【ねぎしたんかかい】

短歌結社。1898年《歌よみに与ふる書》を発表し短歌革新を唱えた《正岡子規》が,東京下谷上根岸の自宅で開いた歌会に始まる。初め香取秀真(ほずま),岡麓,伊藤左千夫長塚節ら,子規没後に斎藤茂吉島木赤彦らが参加し,雑誌《馬酔木(あしび)》《アカネ》を刊行。写生を唱えて《明星》派に対立した。→アララギ
→関連項目赤光短歌正岡子規

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改訂新版 世界大百科事典 「根岸短歌会」の意味・わかりやすい解説

根岸短歌会 (ねぎしたんかかい)

明治時代の短歌結社。和歌の革新にのり出した正岡子規を中心に東京上根岸の子規庵で始められた歌会。1899年(明治32)3月14日に香取秀真(かとりほずま),岡麓(ふもと)らが集まったのを第1回とし,以後回を重ねるごとに活発となり,伊藤左千夫,長塚節らが参加した1900年には最盛期を迎えた。詠草は新聞《日本》に発表され,ときには《心の花》などの諸雑誌にも及んだ。01年以降子規の病状悪化により,場所を他に移して継続したが,その没後の03年《馬酔木(あしび)》を発刊,結社としての体制をそなえるに至った。以後左千夫を中心に運営され,08年1月《馬酔木》終刊のあとは三井甲之(みついこうし)編集の《アカネ》にゆだねられた。まもなく甲之と対立した左千夫は《アララギ》を創刊,《アカネ》との間に名義争いも生じたが,会の実質は前者に移ったといってよい。写生と万葉主義に立つ子規の指導理念を継承し,《アララギ》発展の基礎を築いたところに,その大きな意義がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「根岸短歌会」の意味・わかりやすい解説

根岸短歌会
ねぎしたんかかい

短歌結社。和歌革新運動の実践として、正岡子規(しき)を中心に東京・上根岸の子規庵(あん)で始まった歌会。当初は一般に「子規庵歌会」とよばれた。1899年(明治32)3月14日、香取秀真(かとりほつま)、岡麓(おかふもと)らが集まり、以後回を重ねるにしたがい結社運動としての実質を備えるに至った。翌1900年、伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)らが参加して最盛期を迎えたが、その詠草は子規没後に『馬酔木(あしび)』の創刊をみるまで、新聞『日本』や『心の花』などの諸雑誌に発表された。万葉を尊重し、写生を唱えて新詩社と対立したが、その写実主義は『馬酔木』『アカネ』を経て、『アララギ』に継承され、大正期になって歌壇の一大勢力を形成するに至った。

[本林勝夫]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「根岸短歌会」の意味・わかりやすい解説

根岸短歌会
ねぎしたんかかい

1898年に正岡子規を中心として結成された短歌会。同年『歌よみに与ふる書』を発表し,短歌革新運動を開始した子規は,高浜虚子,河東 (かわひがし) 碧梧桐ら数名の俳人を東京根岸の自宅に集めて歌会を開いた。翌 99年には岡麓,香取秀真 (ほつま) ,伊藤左千夫,長塚節らが参加し,のちには歌人だけの集団となり,いつしか根岸短歌会と称するようになった。伊藤左千夫が中心となって子規の没後も会は存続し,機関誌『馬酔木 (あしび) 』が刊行された。

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