近木荘(読み)こぎのしょう

百科事典マイペディア 「近木荘」の意味・わかりやすい解説

近木荘【こぎのしょう】

和泉国日根郡近義(こぎ)郷(近木郷)に成立した高野(こうや)山金剛峯(こんごうぶ)寺鎮守丹生(にう)明神社(丹生都比売神社)領の荘園。現大阪府貝塚市の近木川下流域を占める。1281年2度目のモンゴル襲来の際,丹生明神社が調伏(じょうぶく)の祈裳をした功により,1284年幕府は国衙(こくが)領であった近木郷の地頭分を同社に寄進,また朝廷も1290年院宣(いんぜん)をもって〈国方〉(領家分)を寄進して近木荘が成立。これに対し巻尾(まきお)寺(現大阪府和泉市の施福寺)が〈国方〉での知行を主張したが,1292年院宣によって丹生明神社を一円領主とすることが確認され,同年高野山は近木荘の惣検注を実施した。この時の検田目録によると近木荘の総田数は227町余,うち現作田213町余という広大な荘園であったが,現作田のなかの雑免(ぞうめん)田・給田などは172町余に達しており,中央官衙や摂関家・奈良春日社(春日大社)などの支配が複雑に入込み,内実は高野山の一円支配というには遠いものであった。雑免田・給田のおもなものに,召次(めしつぎ)給34町余・召次雑免11町・院御櫛造給7町・近衛殿御櫛造雑免34町・御酢免3町・内膳(ないぜん)給13町余・大歌所(おおうたどころ)十生(としょう)雑免35町などがある。当地には上皇熊野詣の際に用いる行宮(あんぐう)があり,召次給は行宮の新造や修理,維持,あるいは一行の食事などの諸費用に充てられていたものと考えられる。院御櫛造給・近衛殿御櫛造雑免や御酢免は,古来当地方の特産であった近木櫛や和泉酢の院・摂関家・国家への供進による供御(くご)人給田である。内膳給は内膳司領網曳(あびこ)御厨の供御人給田,大歌所十生雑免は宮中祭祀に勤仕する楽人の教習所〈大歌所〉所属の〈十生〉に対する雑免田である。立荘前の近木郷は四つの番から構成されていた。番は行政上・年貢徴収上の単位として機能し,各番には責任者である刀禰(とね)・番頭(ばんとう)がおり,下地管理や徴税を担当した。刀禰・番頭には在地の有力土豪層が任命され,根強い支配力をもち,立荘後も番頭制は引き継がれて室町時代まで維持された。南北朝・室町時代を通じて高野山は荘内の一円掌握を目指し,14世紀末近くには権門(けんもん)と寄人(よりうど)の直接的関係をほぼ断ち切り,同時にこれまで(みょう)単位に名主に請け負わせていた年貢収取の方式を,高野山の直接収取に変えていった。とくに1421年から1426年にかけては毎年検注を実施し,一筆ごとに年貢直納者を登録,把握し,一円領有を完成させた。しかし戦国期になると紀伊根来(ねごろ)寺粉河(こかわ)寺が土地集積に乗り出し,また武装化した根来寺勢力が浸透して名主層はその配下となり,16世紀の半ばころには丹生明神社・金剛峯寺の支配は有名無実となった。
→関連項目網曳御厨

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改訂新版 世界大百科事典 「近木荘」の意味・わかりやすい解説

近木荘 (こぎのしょう)

和泉国日根郡内にあった荘園。国衙領近木郷の四つの番(上番,中番,神前番,馬郡番)は1274年(文永11)それぞれが下地中分され国衙方と地頭方となっていたが,蒙古襲来の戦勝祈願のために高野山金剛峯寺の地主神とされていた丹生神社に四番の国衙方と中番地頭方を除いた地頭方とが寄進された。92年(正応5)には中番地頭方も丹生神社に寄進された。当時現作田は213町余あったが,同荘の内外に居住していた院の召次の給田や雑免田のほかに内膳司領であった網曳御厨の寄人の給田,奈良春日神社雑免,宮中の大歌所十生雑免などのほかに刀禰・番頭の給分,院や近衛家の御櫛造に当たっていた手工業者の給田・雑免田などがあって,一円領ではなかった。近木櫛は貴族にも珍重され,酢とともに室町時代まで生産は続けられ,荘園とはいってもこの地方は手工業・商業が盛んであった。1258年(正嘉2)には同地を本貫とする御家人として近木金剛丸,神崎四郎,馬郡左衛門尉がみえる。南北朝初期には南朝の勢力下にあり,和泉国大鳥郡を本貫とする南朝武士和田助氏の支配が及んだこともあった。室町時代に入り15世紀初頭には検注が繰り返し行われ,一円荘領化を目ざしたが,1424年(応永31)の丹生神社への年貢は領家方280石余,地頭方160石余で,合計して440石余に及んだ。番頭制はなお存続し,行政や徴収の単位として機能していた。また手工業・商業も相変わらず盛んで,15世紀初頭には同荘住民は鎮守社に福の神といわれていた夷三郎殿をまつっていた。その中心となったのは供御人・寄人を兼ねる54名に及ぶ同荘の名主であった。戦国時代になると,根来寺,粉河寺の寺僧や両寺とつながりのある同荘内外の国人や地侍層の勢力が広がったが,とくに同荘の神前氏の台頭は著しく,根来寺大福院の院主として子弟を送りこみ,1562年(永禄5)畠山政高が岸和田城に三好実休,安宅冬康を攻めたときには先鋒をつとめた。85年(天正13),豊臣秀吉が紀州を攻撃したとき,同荘内の畠中,積善寺,千石堀,沢の諸城には根来・雑賀衆をはじめ和泉国南部の土豪や農民が立てこもったが敗北した。
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世界大百科事典(旧版)内の近木荘の言及

【和泉国】より

…両守護の下に守護代,小守護代,郡代が置かれ,両家とも守護職を世襲して戦国時代に及んだ。 南北朝内乱の過程で,荘園制の解体と変質が進んだが,高野山領近木(こぎ)荘(現,貝塚市),摂関家領大鳥荘(現,堺市)などでは,多数の小農民が年貢直納者として荘園領主に把握されており,荘園制は室町期にも崩壊には至っていない。一方,台頭してきた小農民層は団結して年貢減免闘争(荘家(しようけ)の一揆)を起こし,一部の有力農民は商業活動にも手をひろげ,高利貸活動で土地を集積し,地主化する者もあらわれるようになった。…

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