百科事典マイペディア 「近木荘」の意味・わかりやすい解説
近木荘【こぎのしょう】
→関連項目網曳御厨
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
和泉国日根郡内にあった荘園。国衙領近木郷の四つの番(上番,中番,神前番,馬郡番)は1274年(文永11)それぞれが下地中分され国衙方と地頭方となっていたが,蒙古襲来の戦勝祈願のために高野山金剛峯寺の地主神とされていた丹生神社に四番の国衙方と中番地頭方を除いた地頭方とが寄進された。92年(正応5)には中番地頭方も丹生神社に寄進された。当時現作田は213町余あったが,同荘の内外に居住していた院の召次の給田や雑免田のほかに内膳司領であった網曳御厨の寄人の給田,奈良春日神社雑免,宮中の大歌所十生雑免などのほかに刀禰・番頭の給分,院や近衛家の御櫛造に当たっていた手工業者の給田・雑免田などがあって,一円領ではなかった。近木櫛は貴族にも珍重され,酢とともに室町時代まで生産は続けられ,荘園とはいってもこの地方は手工業・商業が盛んであった。1258年(正嘉2)には同地を本貫とする御家人として近木金剛丸,神崎四郎,馬郡左衛門尉がみえる。南北朝初期には南朝の勢力下にあり,和泉国大鳥郡を本貫とする南朝武士和田助氏の支配が及んだこともあった。室町時代に入り15世紀初頭には検注が繰り返し行われ,一円荘領化を目ざしたが,1424年(応永31)の丹生神社への年貢は領家方280石余,地頭方160石余で,合計して440石余に及んだ。番頭制はなお存続し,行政や徴収の単位として機能していた。また手工業・商業も相変わらず盛んで,15世紀初頭には同荘住民は鎮守社に福の神といわれていた夷三郎殿をまつっていた。その中心となったのは供御人・寄人を兼ねる54名に及ぶ同荘の名主であった。戦国時代になると,根来寺,粉河寺の寺僧や両寺とつながりのある同荘内外の国人や地侍層の勢力が広がったが,とくに同荘の神前氏の台頭は著しく,根来寺大福院の院主として子弟を送りこみ,1562年(永禄5)畠山政高が岸和田城に三好実休,安宅冬康を攻めたときには先鋒をつとめた。85年(天正13),豊臣秀吉が紀州を攻撃したとき,同荘内の畠中,積善寺,千石堀,沢の諸城には根来・雑賀衆をはじめ和泉国南部の土豪や農民が立てこもったが敗北した。
執筆者:三浦 圭一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…両守護の下に守護代,小守護代,郡代が置かれ,両家とも守護職を世襲して戦国時代に及んだ。 南北朝内乱の過程で,荘園制の解体と変質が進んだが,高野山領近木(こぎ)荘(現,貝塚市),摂関家領大鳥荘(現,堺市)などでは,多数の小農民が年貢直納者として荘園領主に把握されており,荘園制は室町期にも崩壊には至っていない。一方,台頭してきた小農民層は団結して年貢減免闘争(荘家(しようけ)の一揆)を起こし,一部の有力農民は商業活動にも手をひろげ,高利貸活動で土地を集積し,地主化する者もあらわれるようになった。…
※「近木荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加