法とは習字の手本とすべき法書,帖は冊子のことで,狭義には中国において古人の名跡を複製して書の学習や鑑賞の用に備えたものをいう。その製法は,はじめ原跡から双鉤塡墨(そうこうてんぼく)で写し取ったものを木板または石材に陰字に鐫刻(せんこく)し,それを拓本にとって白文の墨摺りとし,帖冊に仕立てる。帖末には多くは〈謀年謀月某摸勒上石〉という刊記を付け加えている。その拓し方により,淡墨で蟬の羽のように透明感のある蟬翼(せんよく)拓本,濃墨で光沢のある烏金(うきん)拓本,麻布を石と紙の間にあててその布目を出した隔麻拓本があり,興趣を異にしている。また広義では,真跡本や臨摹(りんも)本,ときに金石碑碣(ひけつ)の拓本などを剪装(せんそう)して帖に仕立てたものを含めて,およそ手本の体裁になったものをすべて呼ぶこともある。
法帖の種類としては,単帖・専帖・集帖の3種があり,なかでも法帖といえば集帖をさすことが多い。単帖とはある一つの名品を刻した法帖をいう。単独で刻されたのが原義であるが,その他に集帖中の名跡の部分のみが独立して一冊になり流布したものもある。例に鍾繇(しようよう)《宣示表》《薦季直表》,王羲之《蘭亭序》《東方朔画讃》《楽毅論》,王献之《洛神賦》,智永《真草千字文》,孫過庭《書譜》,顔真卿《争座位帖》などがある。専帖とは一人の書家のいろいろな作品を集めて刻した法帖をいう。王羲之の《十七帖》をはじめ,顔真卿《忠義堂帖》,蔡襄《古香斎帖》,蘇軾(そしよく)(東坡)《西楼帖》《晩香堂蘇帖》,黄庭堅《黄文節公法書石刻》,米芾(べいふつ)《英光堂帖》《白雲居米帖》,趙孟頫(ちようもうふ)《松雪斎法書》,文徴明《停雲館真蹟》,董其昌《鷦鷯館帖(しようりようかんじよう)》,王鐸《擬山園帖》,成親王《詒晋斎帖》,劉墉《清愛堂帖》などがある。集帖とは多者の諸名跡を集刻したものであり,叢帖,彙帖(いじよう)とも呼ばれる。そのもっとも早く刻されたものは,五代昇元年間(937-942)に南唐李氏の刻した《昇元帖》であるといわれるが,現存のものは信じがたい。また《澄清堂帖》を南唐李煜(りいく)の刻帖とする説もあったが,今日では南宋の施宿が海陵で刻したものと考えられている。はっきりしているものでは,宋太宗の淳化3年(992)に勅命によって王著が刻した《淳化閣帖》が最も古く,祖帖(法帖の祖)として以後典型として君臨する。その内容は10巻よりなり,第1巻は歴代帝王法帖,第2~4巻は歴代名臣法帖,第5巻は諸家古法帖,第6~8巻は王羲之書,第9・10巻が王献之書が納められ,二王が半ばを占めている。この内容から法帖が歴代における書の典型として崇拝されていた二王を主体として成立していることがよく示されている。《閣帖》は諸王や二府登進の大臣にしか下賜されず,加えて原石がまもなく火災で佚して希少なものであったので,北宋末から南宋にかけて下賜本をもとに賈似道(かじどう),廖瑩中(りようえいちゆう)が刻したのをはじめ,以後翻刻が多くなされた。その系譜は曹士冕(そうしべん)《法帖譜系》に詳しい。また《元祐秘閣続帖》《大観帖》《淳煕秘閣続帖》《絳帖》《汝帖》《鼎帖》《潭帖》のように《閣帖》の増補本も刻されて流布した。宋代にはこの他にも文人等の家刻(個人がその蔵品を刻したもの)の集帖では米芾の《宝晋斎帖》,曹彦約の《星鳳楼帖》,韓侘冑(かんたくちゆう)の《群玉堂(閲古堂)帖》などがある。
明代にも《閣帖》の翻刻は顧従義,潘雲竜,粛憲王,王文粛,常性などによってなされ,それぞれ顧氏(玉泓館)本,潘氏(五石山房)本,粛府(遵訓閣)帖,王文粛本,泉州本と呼ばれている。《閣帖》を増補したものに《東書堂帖》《宝賢堂帖》があり,いずれも親王家で刻されている。嘉靖・万暦(1522-1619)のころになると文人間に書画の鑑賞が流行して法帖の家刻が大変盛んになった。華夏刻の《真賞斎帖》,ついで文徴明《停雲館帖》,董其昌《戯鴻堂帖》,刑侗《来禽館帖》,陳瓛《玉煙堂法帖》,馮銓(ふうせん)《快雪堂法書》など多数の集帖があいついで刻され,空前の盛況を呈した。その内容には二王に加え唐・宋・元・明の名家が入っている。
清代になると乾隆帝の勅命で《閣帖》を翻刻して《欽定重刻淳化閣帖》が作られた。これは前人の考証した帖中の偽帖を除き,編次を正した《閣帖》の決定版である。また内府所蔵の魏の鍾繇から明の董其昌に至る名跡を収めた書道全集ともいうべき《三希堂石渠宝笈法帖》32巻を刻させた。家刻の集帖では梁刻の《秋碧堂法書》をはじめ,畢沅(ひつげん)《経訓堂法書》,孔広鏞《嶽雪楼鑑真法帖》,陸心源《穣梨館歴代名人法書》,楊守敬《鄰蘇園帖》などがある。これら清代の集帖は明代のものより質的に向上したが,一方では中期から金石学が興隆して北朝の碑刻へ関心が集中したため,概して二王の典型を守る法帖の南朝系統の書を学ぶことがすたれた(碑学)。加えて清末から民国になるころから,より廉価で精巧な写真印刷技術が発達したため,帖刻とその拓本によって名跡を複製し供給するという法帖の第一義的役割は後退し,骨董的価値がうんぬんされるようになった。
執筆者:田上 恵一
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古人の書の名跡を石や木に模刻して拓本をとり、学書や鑑賞のために折本(おりほん)に仕立てたもの。広義には真跡本や臨模本、碑誌の拓本を剪装本(せんそうぼん)に仕立てたものをも含めていうことがある。一種類の作品を収めたものを単帖といい、王羲之(おうぎし)の『蘭亭(らんてい)序』『十七帖』、孫過庭(そんかてい)の『書譜』などがある。一書家の書跡を集めたものを専帖といい、顔真卿(がんしんけい)の『忠義堂帖』、蘇軾(そしょく)の『晩香堂蘇帖』、王鐸(おうたく)の『擬山園帖』などがある。多くの人の書跡を集めたものを集帖または彙帖(いじょう)といい、法帖の大部分を占める。
文献によれば、五代十国の南唐において『昇元帖』『澄清堂帖』などが刻されたとされるが、現存する法帖としては、北宋(ほくそう)の淳化3年(992)太宗の命によってつくられた『淳化閣帖』がもっとも古く、一般に法帖の祖と考えられている。宋代には『大観帖』や『群玉堂帖』など数多くの法帖がつくられた。明(みん)代も法帖の制作が盛んに行われ、『停雲館帖』『餘清斎(よせいさい)帖』『鬱岡斎(うつこうさい)帖』『戯鴻堂(ぎこうどう)帖』『快雪堂帖』などがあり、清(しん)代には乾隆帝が『三希堂帖』をつくらせ、このほか『秋碧堂(しゅうへきどう)帖』『隣蘇園(りんそえん)法帖』などがある。清朝末期に写真製版技術が西洋から伝えられ、法帖の制作はしだいに行われなくなった。これらの主要な法帖は各時代の「新版書道全集」ともいえるもので、これによって多くの人々が名跡を直接に学ぶことができるようになった。法帖は複製本であるが、編者の鑑識眼が優れ、かつ精刻のものは、今日からみても驚くほどみごとなものである。また、法帖でしか伝わらない名品も数多い。
[筒井茂徳]
『福本雅一編『法帖大系〈淳化閣帖〉』(1980・二玄社)』▽『宇野雪村編著『法帖事典』(1984・雄山閣出版)』
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…中国,宋の太宗が淳化3年(992),翰林侍書王著に命じ,内府所蔵の法書を出し,名品を選択し,法帖として摹刻(もこく)させたのがこれである。全10巻で,巻一は歴代帝王法帖,巻二~四は歴代名臣法帖,巻五は諸家古法帖,巻六~八は王羲之,巻九~十は王献之をおさめている。…
…宋代には金石学(古銅器や石碑などに刻された文字の研究)が起こり,拓本の収集も盛んになって《金石録》や《宝刻類編》のごとき目録書が今日に伝えられている。また古来の名筆家の尺牘(せきとく)類を集めて石に刻し,拓本をとって法帖(ほうじよう)を作ることが五代から始まり,宋代には大いに流行した。これは鑑賞用と習字用とを兼ねたもので,精巧な石刻の技術の上に,拓本作りにも熟練が要求されたのである。…
※「法帖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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