横井小楠(読み)よこいしょうなん

精選版 日本国語大辞典 「横井小楠」の意味・読み・例文・類語

よこい‐しょうなん【横井小楠】

幕末から明治維新思想家熊本藩士出身。越前福井藩に招かれ、開国貿易・殖産興業など富国強兵策による藩政改革を指導、また幕府の公武合体運動を推進した。維新後、新政府の創業に参画したが、明治二年(一八六九)暗殺された。文化六~明治二年(一八〇九‐六九

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デジタル大辞泉 「横井小楠」の意味・読み・例文・類語

よこい‐しょうなん〔よこゐセウナン〕【横井小楠】

[1809~1869]江戸末期の思想家・政治家。熊本藩士。通称、平四郎。藩政改革に努めたが失敗し、松平慶永に招かれて福井藩の藩政を指導。富国強兵を説き、また、幕府の公武合体運動に活躍。明治維新後、暗殺された。著「国是三論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「横井小楠」の意味・わかりやすい解説

横井小楠
よこいしょうなん
(1809―1869)

幕末維新期の思想家、政治家。熊本藩士。名は時存(ときあり)、小楠は号。藩校時習館に学んで朱子学的教養を身につけ、実学にも関心を寄せた。1839年(天保10)江戸に遊学、佐藤一斎(さとういっさい)、藤田東湖(ふじたとうこ)らと交渉をもったが、過失あり帰藩逼塞(ひっそく)を命ぜられた。ペリー来航時攘夷(じょうい)論を唱えたが、その後世界地理書『海国図志』(ブリッジマン著、魏源編集)を読んで開国通商による富国強兵論を主張するに至った。1858年(安政5)福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の招聘(しょうへい)を受け藩校明道館で講学、ついで江戸へ行き、政事総裁職となった慶永の補佐にあたり、開国貿易、殖産興業、海軍強化策などを説いた。1862年(文久2)刺客に襲われた際の挙動が士道に背くとして藩から帰国を命ぜられ、知行(ちぎょう)没収、士籍剥奪(はくだつ)の処分を受け蟄居(ちっきょ)。明治政権成立後、徴士、参与、制度局判事となり、岩倉具視(いわくらともみ)の信任を受けたが、病気のためたいした活動はできなかった。しかも洋風化の中心としてキリスト教を広めるとみた旧攘夷(じょうい)派のため暗殺される。彼は外国語に通じなかったがよく西洋文物を理解し、勝海舟(かつかいしゅう)、坂本龍馬(さかもとりょうま)らを敬服させたが、その教養の根底には政治と学問とを連続したものとみなす朱子学の理念が強く流れていたといわれる。

[山口宗之 2016年7月19日]

『山崎正董著『横井小楠』上下(1938・明治書院)』


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改訂新版 世界大百科事典 「横井小楠」の意味・わかりやすい解説

横井小楠 (よこいしょうなん)
生没年:1809-69(文化6-明治2)

幕末・維新期の思想家,政治家。諱(いみな)は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。熊本藩士の次男として熊本に生まれた。藩校時習館に学び,居寮長に進んだのち江戸に遊学したが,酒で失敗して帰国させられた。1843年(天保14)ごろ同志と実践的朱子学のグループを結成して学問と政治の一致を目ざし,〈実学〉を唱えた。また同じころ私塾を開いた。徳富一敬(蘇峰の父)が弟子の第1号であった。54年(安政1)兄の死によって家督を相続したが,実学党の名まえが広く知れわたったにもかかわらず,肥後では不遇な一藩士にとどまった。

 58年,福井藩主の賓師として招かれ,福井に出向いた。おりからの安政の大獄で藩主松平慶永(よしなが)は隠居謹慎させられたが,小楠は儒教の民富論,交易論によって藩政を指導し,農民の積極的参加を原動力とする生糸の大量輸出によって巨大な利益を挙げた。この政策の指針となったのが60年(万延1)にできあがった問答体の《国是三論》である。62年(文久2)慶永が隠居のまま幕府の政事総裁職に就任すると,小楠はそのブレーンとして江戸で活躍した。幕府が同年,参勤交代制を事実上廃止し,大名の妻子を人質とすることをやめて帰国させたのは,小楠の建策によるものだった。しかし同年末,友人と酒宴中に刺客に襲われ,逃げたのが士道忘却だと非難されて失脚したため,欧米との条約を根本的に見直して全人類対等の新しい基準を立てようという大経綸は実現できなかった。翌63年には,熊本藩から士籍剝奪の処分を受けて,熊本郊外の沼山津に閑居した。

 68年(明治1)新政府によって京都に呼び出され参与に就任したが,老齢と病気のため目覚ましい仕事もできないまま,翌69年正月,尊攘激派生き残りの不平分子集団に暗殺された。欧米追随路線の元凶だとかってに決めつけられたための災厄だった。
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朝日日本歴史人物事典 「横井小楠」の解説

横井小楠

没年:明治2.1.5(1869.2.15)
生年:文化6.8.13(1809.9.22)
幕末の儒学者。名は時存,字は子操,通称平四郎。小楠は号。他に畏斎,沼山などと号す。肥後(熊本)藩士横井時直とかずの次男に生まれる。藩校時習館に学び天保10(1839)年江戸に遊学。14年ごろから長岡監物,下津休也,荻昌国,元田永孚らと『近思録』会読を始め,真の朱子学即ち実学を目指した。また私塾小楠堂で弟子を教えた。門人には嘉悦氏房ら藩士子弟と共に徳富一敬(蘇峰らの父)のような豪農の子弟がいた。嘉永4(1851)年上方から北陸を遊歴,越前藩との接触が深まり,翌5年同藩から求められ『学校問答書』を書き,学政一致の道徳政治の担い手たることを藩主に求めた。またペリー来航後書かれた『夷虜応接大意』では,日本は「天地仁義の大道」に基づき「有道」の国と交際すべしと説く。安政1(1854)年兄の死により家督を相続。5年越前藩主松平慶永(春岳)から師として招かれ,藩政を指導し富国策を実施し,その経緯を『国是三論』に著す。文久2(1862)年幕府の政事総裁職に就いた春岳の政治顧問となり,参勤交代制の廃止など幕政改革を推進した。同年末,肥後藩江戸留守居役吉田平之助宅で酒宴中刺客に襲われ福井に戻る。翌3年朝廷,幕府,諸藩さらに外国人代表をも集めた大会議を領導すべく,越前藩挙藩上洛策を指導するも失敗,熊本へ帰り士籍を剥奪され,沼山津に逼塞したが思想的活動は衰えなかった。その思想は儒教的理想主義による政治革新と儒教的主体による東西文化の統合の構想など注目すべきものである。明治1(1868)年4月新政府に招かれ上京,徴士参与に任ぜられたが,尊攘派志士に暗殺された。<参考文献>山崎正薫『横井小楠』,松浦玲『横井小楠』

(沼田哲)

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百科事典マイペディア 「横井小楠」の意味・わかりやすい解説

横井小楠【よこいしょうなん】

幕末の思想家,政治家。肥後の人。熊本藩士。名は時存,通称平四郎。1839年江戸に出て,藤田東湖らと交わり,帰藩後は熊本に家塾小楠堂を開いて実践的朱子学グループ〈実学党〉の中心をなす。塾生第1号は徳富蘇峰の父一敬。早くから全人類対等の思想に立つ独自の開国論を唱えたが,藩にはいれられず,越前藩主松平慶永の招きに応じ1858年福井に行き,藩政改革を指導,生糸の大量輸出により巨大な利益をあげた。その政策の指針は《国是三論》にまとめられた。1862年慶永が幕府の政治総裁職となると補佐役として活躍するが,宴席で刺客に襲われて逃げたことが理由で失脚。維新後,1868年新政府に参与として迎えられたが,欧米信奉の元凶と誤解されて,1869年正月,路上で暗殺された。
→関連項目熊本洋学校佐藤一斎福井藩由利公正

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「横井小楠」の意味・わかりやすい解説

横井小楠
よこいしょうなん

[生]文化6(1809).8. 熊本
[没]明治2(1869).1.5. 京都
幕末維新の開明的経世家,政治家,思想家,教育家。肥後藩士大平の次男。幼名は又雄,のち時存。通称は平四郎。小楠,沼山と号した。藩校時習館で儒学を学び,30歳のとき江戸に出て藤田東湖らと交わり,翌年帰郷して家塾を開き,学問と政治を一致させる実学を唱えた。各地を巡遊し,安政5 (1858) 年から7年間,4回にわたり越前藩主松平慶永に招かれて福井に滞在し,『国是三論』を著わして,開国通商,富国強兵,士道3論から成る大綱を主張。慶永を通じて幕政にも参画し,幕府改革,公武合体運動を進めた。福井藩の政変で失脚して帰国。維新後新政府に招かれて京都に行き,制度局判事,参与に任じられたが,その開明的な言動が保守派にキリスト教信者と誤解され,退庁の途中十津川郷士,津下四郎左衛門らに暗殺された。その立場は豪商農層を背景とする重商主義,農権国家の樹立であったとされ,その論策,書簡は山崎正董編『横井小楠遺稿』に収められている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「横井小楠」の解説

横井小楠
よこいしょうなん

1809.8.13~69.1.5

幕末・維新期の政治家。肥後国熊本藩士の次男。通称平四郎,小楠は号。藩校時習館で学んだのち江戸に遊学。帰国後私塾を開き,熊本実学党を結成して藩政改革を企図するが失敗,1851年(嘉永4)から諸国を遊歴する。58年(安政5)福井藩に招かれ,松平慶永(よしなが)の政治顧問となる。「国是三論」(1860)を著し,開国通商・殖産興業・富国強兵を主張して藩政改革を主導した。62年(文久2)慶永のブレーンとして公武合体運動を推進し,雄藩連合を構想するが,63年失脚し,熊本で閑居。儒学に立脚しつつ,幕末の内政および外交政策をとらえ直し,革新的な思想を唱えて,当時の有識者に大きな思想的影響を与えた。維新後,新政府の徴士・参与となったが,69年(明治2)1月保守派に京都で暗殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「横井小楠」の解説

横井小楠 よこい-しょうなん

1809-1869 江戸時代後期の儒者。
文化6年8月13日生まれ。肥後熊本藩士。天保(てんぽう)10年江戸に遊学。帰藩後は家塾をひらき,実学派の中心となる。安政5年福井藩主松平慶永(よしなが)の藩政顧問となり,藩の富国策を指導。新政府のもと,京都で参与となるが,明治2年1月5日暗殺された。61歳。名は時存(ときあり)。字(あざな)は子操。通称は平四郎。別号に沼山。著作に「国是三論」。
【格言など】人必死の地に入れば,心必ず決す

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旺文社日本史事典 三訂版 「横井小楠」の解説

横井小楠
よこいしょうなん

1809〜69
幕末・維新期の政治家
通称平四郎。熊本藩士。儒学・洋学を修め海外情勢に明るく,熊本実学党を結成した。1858年越前藩主松平慶永 (よしなが) の政治顧問となり,殖産興業・開国貿易の必要を説き富国強兵をめざす藩政改革を指導。'62年慶永が幕府の政事総裁職につくと公武合体運動に活躍,翌年失脚した。のち明治政府の徴士・参与となったが開明的識見のゆえに保守派に暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の横井小楠の言及

【実学】より

…在野の洋学者たちは国防の危機や国内の社会不安の解決のため洋学こそ有用急務の実学とみなした。佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。…

【ワシントン】より

…首都ワシントン,ワシントン州をはじめ,国父としての彼を記念して名づけられている地名,施設が多い。 日本においては,早くも幕末に横井小楠が〈真実公平の心〉の持主(《沼山対話》1864),西洋列国の有名な人物の中では唯一例外的に〈徳義のある人物〉(甥あての書状,1867)とワシントンを称賛している。明治維新以降,アメリカの独立戦争・建国時ナショナリズムの,また自由の精神の体現者として,ワシントンは国権派からも民権派からも好意的に受けとめられた。…

※「横井小楠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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