横枕村
よこまくらむら
[現在地名]大野市横枕
真名川と清滝川に挟まれ、北は新在家村、南は堂本村。村名は永禄一二年(一五六九)六月一六日付宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)にみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には高一〇二〇・一四石とあるが、これは正保郷帳以降にみえる、当村と堂本村の村高合計に等しく、近世初期に二村に分れたと推定される。なお、同帳によると、当村は田方四一〇石・畠方二二一石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)以降大野藩領。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]鳥取市横枕
衣笠山を源とする猪子川に沿う。猪子谷の入口で、南東の玉津村へ七町、倭文村へ二一町(因幡志)。拝領高は二八八石余、本免五ツ八分。藪役銀二匁・川役銀四匁六分が課されていた(藩史)。河毛氏・吉村氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三〇。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男九三・女八九。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]相知町大字横枕
厳木川右岸に沿う村で、しばしば洪水に悩んだ。千束村との境に千束川が流れる。
正保絵図に村名がみえるが、条里制のなごりの地名とされ、字名の六反田・八反田も同様の意味をもつという。小作礼山の山麓にある池田砦跡は岸岳城の出城として設けられ、別名池田城ともいう。戦国期、池田治郎少輔岩之丞の居城で、その周辺に、堀跡・大手口・馬場などの地名がある。
文化年中(一八〇四―一八)、相知村大庄屋松隈杢右衛門は厳木川の横枕村内に、九年をかけて大井堰を築き、横枕・中山・相知一帯に灌漑用水を導いている。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]烏山町横枕
上境村の東に位置し、木須川支流小木須川の上流域にあたる。北は大沢村、南は小木須村。検討の余地は残るが、天文一八年(一五四九)九月二八日の那須高資充行状写(益子文書)に村名がみえ、宇都宮勢と戦った喜連川五月女坂での合戦の戦功により、興野尾張に与えられている。江戸時代を通じ烏山藩領で、畑方年貢米納の村。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高一六八石余。慶安郷帳では田高九二石余・畑高七五石余。戸口の減少などにより文化二年(一八〇五)には村高三六一石余のうち荒地は一五〇石余と四割を超えている(「畑方改控帳」横枕自治会文書)。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]東大阪市横枕・横枕東・横枕西・荒本北・荒本西四丁目など
若江郡に属し、菱江村の西にある。大和川付替え後、村の中央を流れていた菱江川の川床に菱屋東新田が開発された。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高五九四石余、幕府領。寛文二年(一六六二)より大坂城代青山宗俊領となり、延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では同太田資次領で四八五石余と改出一〇六石余と一石余。この改出は無地増高。
横枕村
よこまくらむら
長岡町の南方約一里、摂田屋村から村松往来をたどって東山丘陵に突当る直前の集落。東の山麓に鷺巣村・竹ヶ花村へと続く。天正村名考(温古之栞)に「横間倉卅八軒」と伝えるのが当村。集落の西に杉森に囲まれて二之宮明神の石祠がある。村松の一之宮社の下に位する宮として成立したという。この二之宮明神は文明(一四六九―八七)頃の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に二宮大宮司分として文明一六年検地の本田・増分と同一九年の再検地増分合計一千四九五束苅が記され、石坂八方よりの寄進分である。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]魚津市横枕
片貝川左岸の扇状地扇頂部付近にあり、西は袋村・石垣新村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高九五石・免四ツ二歩、万治二年(一六五九)の新田高一石(三箇国高物成帳)。享保八年(一七二三)など七度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の打銀高一四一石余(「高免帳」杉木家文書)。
横枕村
よこまくらむら
[現在地名]金沢市横枕町
金市新保村の南西に位置。正保郷帳によれば高二六八石余、田方一七町五反・畑方三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二五四石、免五ツ八歩(三箇国高物成帳)。安政二年(一八五五)の高は寛文一〇年時と同じで、家数二二(うち頭振六)・人数一一八、引免六歩(「高免家数人数等書上」亀田文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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