武家様文書(読み)ぶけようもんじょ

改訂新版 世界大百科事典 「武家様文書」の意味・わかりやすい解説

武家様文書 (ぶけようもんじょ)

鎌倉幕府成立以後,武家政権あるいは武家が新しく生み出したり,公家(くげ)様文書を改良して用いた様式文書。鎌倉幕府ははじめ公家様文書の下文(くだしぶみ)と御教書(みぎようしよ)を利用し,ついでその2様式の折衷ともいうべき様式で,これまでにない下知状(げちじよう)を生み出した。いずれも奉書(ほうしよ)形式であるこの下文,御教書,下知状の3様式が鎌倉幕府の中心的な発給文書となった。幕府から発する御教書,下知状は執権と連署がともに署して,関東御教書,関東下知状と称され,六波羅探題が発するものは南北両探題が連署して,六波羅御教書,六波羅下知状とよばれた。つぎの室町幕府もこの3様式を継承したが,直状(じきじよう)形式の将軍家御判御教書(ごはんのみぎようしよ)や,それよりもっと書状化した御内書(ごないしよ)を生み出したため,初期においては下文も用いられたが,15世紀に入るとほとんど消滅した。下知状も用いられることが少なく,幕府の発する布告の類にのみ限定された。執事,管領の奉ずる幕府御教書は御判御教書の施行状としても多く発せられたが,これも応仁・文明の乱を境に減少した。

 これに代わって室町幕府の発する奉書は奉行人連署奉書が多くなった。これには竪紙たてがみ)奉書と折紙(おりがみ)奉書の2様があった。室町時代地方分権化した有力守護大名はみずから花押を据えた直状を多く用い,これを書下(かきくだし)とか判物(はんもつ)と称した。戦国時代になると各地戦国大名印章を捺した印判状(いんばんじよう)を発するようになり,所領の充行(あておこない)や安堵(あんど)などの恩給文書には判物,領内治政の民政文書には印判状を用いた。この判物,印判状が武家様文書の最後のものであり,確立化されたものであって,織豊政権江戸幕府もこの2様式を継承し,江戸幕府にあっては印判状の一つである朱印状が最高権威の文書であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武家様文書」の意味・わかりやすい解説

武家様文書
ぶけようもんじょ

古代末より武家社会で用いられた文書様式の総称。分類概念。公式令(くしきりょう)以来の公式様文書に代わり平安時代に現れる公家様文書(くげようもんじょ)に対応する概念。元来、武家様文書は公家様文書から発生した。公家用文書は(1)公家社会で広く一般的に用いられた(官)宣旨(せんじ)形式を範とする公文書としての下文(くだしぶみ)、(2)私文書として個人の手紙の様式が発展した書札(しょさつ)形式の奉書などを含む御教書(みぎょうしょ・みきょうしょ)(天皇の意思によるものは綸旨(りんじ)、上皇の場合は院宣)に大別される。こうした公家用文書の影響を継受しつつ、武家社会独自の文書様式が形成された。鎌倉幕府では公家用文書に倣い、下文と御教書を公文書として採用したが、やがて両者の中間的な性格をもつ下知状(げちじょう)が発生。室町幕府でも当初は鎌倉幕府以来の下文・御教書・下知状という文書体系を引き継ぐ。しかし下文に代わって直状(じきじょう)形式の御判御教書(ごはんみぎょうしょ)や、御内書、奉行人奉書が現れ、室町幕府独自の文書体系が確立した。

 両幕府の文書体系を範として各地の守護・戦国大名も各自の文書体系を整備した。

[佐多芳彦]

『黒板勝美著「日本古文書様式論」(『虚心文集6』所収・1940・吉川弘文館)』『相田二郎著『日本の古文書』(1962・岩波書店)』『佐藤進一著『古文書学入門』(1997・法政大学出版局)』

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