水口村(読み)みのくちむら

日本歴史地名大系 「水口村」の解説

水口村
みのくちむら

[現在地名]八千代町水口

松本まつもと村・村貫むらぬき村の西に所在。松本の台地との間にいい沼のあし口より細長く浸入したヤト田がある。西は畑作地帯。細長いヤト田の西側台地縁辺部を北上するように細長い集落を形成するが、享保期(一七一六―三六)にはさらに北上してヤト田の東側に水口村新田(現猿島郡三和町間中橋)を分立した(諸川小林家文書)

「将門記」に天慶三年(九四〇)二月のこととして、平将門軍が下野国に遠征して敗れ、平貞盛・藤原秀郷軍に追撃されそれに応戦する状況が「時ニ貞盛・秀郷等、蹤ニ就キテ征クノ程ニ、同日ノ未申ノ尅許ニ、川口ノ村ニ襲ヒ到ル。新皇ハ声ヲ揚ゲテ已ニ行キ、剣ヲ振ヒテ自ラ戦フ」とみえているが、この川口かわぐち村は当村に比定されている。


水口村
みなくちむら

[現在地名]船岡町水口

殿との村の南東、大江おおえ川中流右岸に位置する。北東の八東はつとう見槻中みづきなか村へ抜ける八東塚越が通る。殿村の枝郷で、元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、正保郷帳正保国絵図には記載しなかったが、元禄郷帳・元禄国絵図作成に際して収載したとある。ただし「因幡志」によれば正保―慶安(一六四四―五二)の頃に領内限り別村になっていたという。元禄郷帳によれば高二三七石余。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では高二四〇石余で、拝領高相当分と考えられる。


水口村
みずぐちむら

[現在地名]山梨市水口

堀内ほりのうち村の西にあり、笛吹川の支流川上流の山間地に広がる。八幡やわた入八郷の一つ。枝郷に山口やまぐち丸山まるやまがある(文政五年「村明細帳」山梨県史資料叢書)。「一蓮寺過去帳」の永正二年(一五〇五)二月一五日逆修の眼阿弥陀仏および了一房に「水口八幡」との注記がある。元亀二年(一五七一)三月二六日、武田信玄窪八幡くぼやわた郷のうち水口の清三郎らに対し、当年より両棟別銭を免除する代りに参陣を命じ、普請役および隠田が発見されたときの処置は軍役衆と同様にするとしている(「武田家印判状写」甲州古文書)


水口村
みずくちむら

[現在地名]男鹿市北浦西水口きたうらにしみずくち

男鹿半島北西部に位置し、南はしん山に連なる山地、北は村にかけて海岸段丘が続く。西約一・五キロにいち目潟めがたがあり、戸賀とが湾へ通じる。東を流れる賀茂かも川支流の奥に大堤が築かれており、村名はその水取入口に由来すると思われる。

天和二年(一六八二)の「北浦村地形の内水口村草飼入会一件」(「北浦郷中文書」相場誠一郎氏蔵)に「水口村」とみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に記載がないことからこの間に村の成立があったものであろう。


水口村
みずぐちむら

[現在地名]秋田市外旭川 水口

神田かんだ村の南東六町、西は寺内てらうち村に境し、東はいずみ山の山林。水口村は元禄三年(一六九〇)に成立した。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「元来寺内村一郷に御座候処に元禄三午年に寺内村御高之内六百六十八石七斗六升五合当村え御帳分被下候。宝永二酉年御墨印頂戴、二十軒」と成立の状況を記す。

支郷は家数六軒の荒屋鋪あらやしき村と二二軒の八幡田はちまんでん村、九軒の山崎やまざき村で、山崎村は同書に「元来山崎村は川尻村之内支郷に御座候に元禄三午年山崎村御高四十九石四升八合村分に被入置候、其訳は川尻村より山崎村手造にて御百姓不勝手に御座候に付水口村川尻村より願申立水口分に右御高被入置候」とある。


水口村
みなくちむら

[現在地名]朝日町常盤ときわ

最上川とその支流朝日川に囲まれた地域にあり、東は赤釜あかがま村、南は須野瀬すのせ村。正保郷帳に田方一三八石余・畑方三八石余とある。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。西五百川にしいもがわ一石楢いちこくなら組に属し、西五百川地区の中心地。天明七年(一七八七)の松山藩左沢領村々大概書(松山町教育委員会蔵)では高一九五石余、田七町二反余・畑三町七反余、用水は溜井と朝日川の水を引いた。家数三〇・人数一二〇、馬七。農間に男は薪を取り、女は布を少々織り、青苧を作る。草刈場は六ヵ村入会山で、朝日川には橋が架けられ、漁猟も少しあるという。


水口村
みのくちむら

[現在地名]赤碕町勝田かつた

東井手上ひがしいでのうえ村の南に位置する。拝領高は一〇七石余、本免は五ツ一分。藪役銀五匁を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一一八石余、竈数六。幕末の六郡郷村生高竈付では一二一石余、竈数一一。享保二〇年東井手上村などとともに立子谷たつこだにの秣場であったなか村の本谷ほんだに大藤谷おおふじだにへの入会をめぐって立子谷の村々と相論が生じている。


水口村
みのくちむら

[現在地名]日高町水口

万劫まんごう村の北、神鍋かんなべ台地の西に位置する。江戸時代の領主の変遷は頃垣ころがき村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高七九石余。以後幕末まで高に変化はない。出石封内明細帳では田方七六石余・畑方三石余。


水口村
みなくちむら

[現在地名]八尾町水口

青根あおね村の東、野積のづみ川右岸にある。正保郷帳に村名がみえ、村高は東布谷ひがしぬのたに村と合せて三三三石余、田方八町八反余・畑方一三町四反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高三三三石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一八一石余。


水口村
みよぐちむら

[現在地名]長生村水口

岩沼いわぬま村の南西方に位置し、西部に沼地がある。北水口村と同じく古くは妙口とも表記されたのであろう。元禄郷帳では「ミヤウクチ」の訓を付す。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に水口村とみえ、高一一八石。寛文四年(一六六四)の脇坂安政領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ信濃飯田藩領。同八年の鷹場五郷組合帳では七井戸組に属し、同藩領一〇〇石余。


水口村
みなくちむら

[現在地名]安中市大竹おおたけ下磯部しもいそべ

碓氷うすい川右岸にあり、大竹村の北、常木つねぎ村の西に位置する。寛文郷帳では田方二五五石余・畑方一三四石余、旗本品川領。元禄郷帳には枝郷きた村が載る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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