大竹村(読み)おおたけむら

日本歴史地名大系 「大竹村」の解説

大竹村
おおたけむら

[現在地名]大竹市西栄にしさかえ一丁目・南栄みなみさかえ一―二丁目・しん町一―三丁目・ほん町一―二丁目・白石しらいし一―二丁目・もと町一―四丁目・大竹町大竹

油見ゆうみ村の南に位置し、南は木野この川を隔てて周防国に相対し、東は瀬戸内海に臨む。山地が多く木野川河口の平地に集落が展開する。中世は小方おがた郷に属した。建治三年(一二七七)五月六日付の佐伯助広処分状(所文書)に「おうたき」とあり、時に「大滝」とも書かれた。建長五年(一二五三)四月日付の新日吉小五月流鏑馬定文案の紙背に記された伊都岐島社社領証文目録(新出厳島文書)に地名がみえ、寿永三年(一一八四)頃から厳島神社領であった。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]川上町上大竹かみおおたけ下大竹しもおおたけ

吉備高原上とその谷筋に集落が散在し、上と下に大きく二分される。標高四〇〇―四五〇メートルの上大竹の神野ほやを中心に石灰岩台地(神野台)を形成し、ドリーネなどのカルスト地形特有の景観が展開する。台地上の降水は地下鍾乳洞の伏流水となり、上大竹の下谷しもだにで高さ約二五メートルに及ぶ沢柳さなぎの滝を形成している。北と西は高山こうやま村・高山市こうやまいち村および後月しつき郡境、東は地頭じとう村・二箇にか村。

寛永備中国絵図によると高六四六石余、山崎家治先知。なお天保八年(一八三七)頃のものと推定される古帳高写(松室文書)では、慶長年間(一五九六―一六一五)の高六四六石余の内訳は田方三三五石余・二六町七反余、畑方銭三一〇貫五三文・六六町二反余。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]加茂町大竹

東は延野のぶの村、南は神原かんばら村、西は上阿宮かみあぐ(現出雲市)あか川が南東の古川ふるかわ地区を流れ、中央を大竹川(寺谷川)が流れる。慶長七年(一六〇二)の大竹村検地帳では田畑合計一四町余・分米一七五石余。元禄十年出雲国郷帳では高二三一石余、寛文四年(一六六四)の本田高二一〇石余・新田高四石余。「雲陽大数録」では高一五〇石。寛政一二年(一八〇〇)の人数二四六(「大原郡宗門改」加茂町誌)。赤川の洪水でしばしば被害を受け、寛政四年には氾濫で牛馬に食べさせる草が腐り、牛馬が斃死した。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]秦野市西大竹にしおおだけ大秦たいしん町・むろ

北を室川が流れ、南に淘綾ゆるぎ丘陵が連なり、北・東は上大槻かみおおづき村、南は足柄上あしがらかみ井口いのくち(現中井町)、西は尾尻おじり村に接する。村の西方を南北に大山道が通る。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)に「大竹之郷」とある。「風土記稿」は正保国絵図に村名がみえないことから正保年間(一六四四―四八)以後尾尻村より分村し、両村は地境が錯雑して分別しがたいとする。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]成田市大竹

上福田かみふくだ村の南に位置し、南は印旛いんば沼に面する。もとは福田郷の一部であったが、暦応年間(一三三八―四二)に千葉氏一族の大竹左馬頭次郎が当地に居を構え、大竹を村名にしたと伝える(「八生村誌」成田山霊光館蔵)。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえる。元禄郷帳では高五六七石余。領主の変遷は成毛なるげ村と同じ。享保八年(一七二三)の淀藩領郷村帳によると、小物成として夫役永一貫六二六文余・栗代永八二文・林下刈銭鐚二〇〇文・野地銭永二貫三七四文・山銭九貫二二二文があった。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]安中市大竹

野殿のどの村・中宿なかじゆく村の西にある。平頼盛が当地を含む磯部いそべ八幡やわた(現高崎市)に住して、田五〇〇町を湯沐料に定め、家臣の大竹与左衛門が大竹・池田いけだ水口みなくちなどを開拓したと伝える(大竹文書・中島誌)。古くは下磯部に含まれたと考えられ、文禄(一五九二―九六)頃当地一帯を領した信州伊那出身の座光寺為時は大竹に住したという(寛政重修諸家譜)


大竹村
おおたけむら

[現在地名]金浦町大竹

赤石あかいし川の中流に位置し、東は白雪しらゆき川を挟んではた村(現仁賀保にかほ町)、北はくち(現仁賀保町)、西は前川まえかわ村、南は大飯郷だいはんごう村(現象潟きさかた町)に接する。

文禄元年(一五九二)八月二〇日付の仁賀保宮内少輔宛仁賀保兵庫頭知行宛行状(秋田藩家蔵文書)に村名がある。慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に、仁賀保郷の一村としてある。

慶長七年最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領、寛永元年(一六二四)仁賀保七千石家領、同八年天領となり庄内しようない(現山形県)酒井氏預領、同一七年本荘藩領となる。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]伊勢原市東大竹ひがしおおだけ八幡台はちまんだい一―二丁目・桜台さくらだい一丁目・同三―四丁目・伊勢原いせはら一―四丁目

北は伊勢原いせばら村・田中たなか村、東は沼目ぬまめ村・上平間かみひらま村・下平間村、南は馬渡まわたり村に接する。大山道と小田原道が通る。小田原衆所領役帳には大道寺弥三郎「廿六貫九百五拾六文 中郡大竹今ハ源六」とある。宝暦一〇年(一七六〇)下総佐倉藩領と旗本揖斐領の二給。平塚宿の大助郷を勤め享保三年(一七一八)の助郷高二七〇石(「平塚宿助郷帳」県史九)


大竹村
おおたけむら

[現在地名]哲西町大竹

下大野部しもおおのべ村の北に位置し、神代こうじろ川が流れ東城とうじよう往来が通る。同往来で二本松にほんまつ峠を西へ越えると備後国福代ふくしろ(現広島県比婆郡東城町)。同往来を備後側からは備中新見路とよび、峠にもと二本の松があったことから二本松峠という。現在一本は枯死し一本のみ残る。またこの峠は分水嶺で、東は神代川となり、西の水は東城川となる。福代得能家蔵の江戸後半期と考えられる芸藩内全図および福代村絵図によると、峠には御境杭木と称する木製の門が設けられ、その南側に柱状の一対の国境碑が建ち、備後側に広島藩の番所があった。

寛永備中国絵図に村名がみえ、高四四九石余、松山藩領。正保郷帳でも同藩領、高も同前。宮林少・芝草山大の注記がある。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]鉾田町大竹

東は鹿島灘に臨み、北は白塚しらつか村。応永二五年(一四一八)六月五日の沙弥行栄打渡状(烟田文書)に「常陸国鹿嶋郡烟田郷大竹在家五町五間買得人寺内法仙沽却地事、任去五月廿二日御施行之旨、鹿嶋出羽守相共下地於渡付烟田遠江守之代畢」とあり、室町時代には烟田かまた郷の内にあり、烟田氏の影響下に置かれた。以後戦国時代を通じて、隣村の烟田氏の支配が継続し、烟田旧記(続常陸遺文)に「永禄九年十月十三日大竹に宿立始候、同月十六日宿普請ほり始」と記される。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]東村上野出島かみのでじま

やしろ川の支流みや川中流域に位置し、寛文三年(一六六三)上野出島村から分村して成立。南は若栗わかぐり新田村、北は上野出島村、東は大田輪おおたわ(現浅川町)、西は釜子かまのこ村に接する。江戸時代初めは白河藩領、享保元年(一七四一)以降越後高田藩領で、栃本組に属した。白河古領村郷高帳では高一四六石余。助郷は水戸街道釜子宿へ出役。分村時の庄屋は市之丞が勤めたが、その後は上野出島村庄屋・深仁井田ふかにいだ村庄屋が兼帯した。分村を命じられたときの高調書上(東村史)に「古高八百拾六石六斗六升五合 上野出島村 高百石九斗五升五合 但大竹村江分け高 右之通高訳被仰付候ニ付書上申処相違無御座候依襄御請書差上仍如件 寛文三卯年二月 上野出島村庄屋 善九郎 大竹村庄屋 市之丞 本多越中守様御役所」とある。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]八尾市大竹・西高安にしたかやす町二―三丁目

高安郡に属し、楽音寺がくおんじ村の南、高安山麓に位置し、十三じゆうさん街道が東西に通る。村は東の山麓部から西の恩智おんぢ川沿いの低地へと傾斜し、細長く東西に延び、西端近くを東高野街道が南北に走る。当地に中河内地域最大の前方後円墳である心合寺山しおんじやま古墳がある。被葬者は玉祖氏の祖といわれたり、美努連といわれたりしている。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]越谷市大竹・千間台東町せんげんだいひがしちよう千間台西せんげんだいにし

大道おおみち村の東に位置。南は元荒川に限られ、集落は同川の自然堤防上に広がる。当地から正和元年(一三一二)や嘉暦三年(一三二八)在銘の板碑が発見されている。田園簿に村名がみえ、高は田方七七石余・畑方一〇九石余。三之宮さんのみや村と同じく寛永二年(一六二五)岩槻藩の城付村となり幕末に至る。延宝八年(一六八〇)の家数二七(本百姓一七・水呑一〇)、人数一六八(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高二五〇石余、ほかに新田高三〇石余。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]函南町大竹

来光らいこう川上流域にあり、南は上沢かみざわ村。応永五年(一三九八)六月二五日の密厳院領関東知行地注文案(醍醐寺文書)に伊豆国「大田家村」とみえ、伊豆山密厳みつごん(現熱海市)領であった。文禄三年(一五九四)七月一二日代官頭伊奈忠次による検地が行われ、検地帳(田中家文書)には「君沢郡大竹村」とある。高一〇四石余、田方八町二反余・畑方一町二反余、屋敷二反余。江戸時代初頭は幕府領、元禄一一年(一六九八)一部が旗本阿部領となる。幕府領分は元文二年(一七三七)陸奥棚倉藩領となり、明和四年(一七六七)上知され、天明五年(一七八五)相模小田原藩領となって幕末まで続いた(韮山町史など)


大竹村
おおたけむら

[現在地名]瀬高町下庄しものしよう

瀬高下庄せたかしものしよう村の北東、薩摩街道沿いにある。文禄四年(一五九五)の知行方目録に大竹村とみえ、高五五四石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別六〇町八反余・分米五三八石余、村柄は上とある。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高四四九石余・新田高一四石余、二尊にそん寺領玄蕃高一石余。小物成は山手米一石余。旧高旧領取調帳では高六六二石余、幕末から明治初年の反別四九町六反余(郡郷)。文久二年(一八六二)の御小物成盛掛小帳(立花家文書)によれば揚酒一・精油一・菓子一・飴おこし一・小店一があった。


大竹村
おおたけむら

[現在地名]川口市大竹

貝塚かいづか村の南に位置し、台地と低地が入組む。東方のはら村とみね村の間に飛地がある。田園簿では田六九石余・畑三三石余で、旗本伊達領。伊達氏は天正一九年(一五九一)大和田おおわだ(現大宮市)で二五〇石を宛行われたが、見沼水いかりで八八石余が川欠けとなり、寛永六年(一六二九)当村で替地を与えられた(「寛政重修諸家譜」、寛政一二年「知行拝領覚」浅子家文書)。国立史料館本元禄郷帳では旗本伊奈領と伊達領の相給となっているが、享保二年(一七一七)紀伊徳川家が再び鷹場を拝領した際、当村は伊達領のみとなっており、幕末まで変わらなかったとみられる(「会田落穂集」会田家文書、「風土記稿」、改革組合取調書など)


大竹村
おおだけむら

[現在地名]大洲市菅田町大竹すげたちようおおだけ

大洲市の中心部から東南へ四キロ、ひじ川北岸の根太ねぶと(二九九メートル)から肱川南岸の支流裾野すその川河谷にかけて広がる村。

文禄三年(一五九四)の検地帳(有友家文書)によると、田八町六反八畝一七歩、畑三六町一反三畝で、石高は両者合わせて三五三石八斗五升四合となっている。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「大竹村 日損所、水損所、茅山有、川有」とある。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]鶴来町大竹町

手取川扇状地の扇頂部中央に位置し、東は森島もりじま村。仮名付帳は「おおたけ」と訓ずる。山島やまじま用水が村内を北西流し、大慶寺だいぎようじ用水が南辺を西流する。正保郷帳に村名がみえ高三八一石余、田方二二町三反・畑方三町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三九五石、免五ツ三歩、小物成は油役八匁・川役二五匁、鳥役五匁(鷹場につき免除)であった(三箇国高物成帳)


大竹村
おおたけむら

[現在地名]袖ケ浦市大竹

吉野田よしのだ村の南東に位置し、鎗水やりみず川が流れる。北畠きたばたけ一帯に土塁・空堀や井戸跡という遺構がある。大竹城とよび、真里谷まりやつ(現木更津市)の支城として大竹信満が居城したともされる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高四二九石。


大竹村
おおだけむら

[現在地名]大網白里町大竹

金谷名かなやみよう村の西方に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高四二七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では法目組に属し、幕府領二三石余と旗本曲淵領四〇七石余。領主は幕末まで同じ(慶応二年「捉飼場五郷連印帳」渡辺家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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