改訂新版 世界大百科事典 「水滸伝物」の意味・わかりやすい解説
水滸伝物 (すいこでんもの)
中国明代の小説《水滸伝》を日本の風土にあわせて翻案した小説類の総称。西鶴の《好色一代男》に始まる浮世草子は,八文字屋本の末期に至ると当初の活力を失い類型的な気質(かたぎ)物の範疇から抜け出すことができず,沈滞し衰微するばかりであった。読書界は新風を待つこと久しかったが,18世紀中ごろ,浮世草子には見られなかった思想性,伝奇性,歴史性を持ち,和漢雅俗折衷の文体を用いる読本(よみほん)が京坂を中心に発生した。この読本発生の機運に寄与したものの一つに,唐話学隆盛に支えられた白話小説の流行があげられる。その中では《水滸伝》が早くから紹介され,岡島冠山による訓訳本(原文に訓点を施し,難語には訳を付す)がその没後の1728年(享保13)に刊行されている。《水滸伝》普及史における冠山の功績は多大で,《水滸伝》の最初の和文訳《通俗忠義水滸伝》(1737-90刊)も彼の労になる。ほかに陶山南濤(すやまなんとう)も《忠義水滸伝解》と題して和文訳を行った。そして1768年(明和5)北壺游(きたこゆう)作の最初の水滸伝翻案物《湘中八雄伝》が江戸で刊行された。この漢学系統の享受とは別に,大陸渡来の漢文体を日本の古典語に接合しようとする動きもあった。1773年(安永2)には,後年曲亭馬琴が《近世物之本江戸作者部類》で,〈其おもむき水滸伝を模擬したれども,水滸の古轍を踏ずして,別に一趣向を建たるは,当時の作者の及ばざる所也,実に今のよみ本の嚆矢也〉と高く評価した,建部綾足の読本《本朝水滸伝》の前編が刊行されている。伊吹山を梁山伯,恵美押勝を宋江,道鏡を高俅に擬して,奈良朝末の朝廷をめぐる陰謀反乱を描いたもので,未完に終わったが,後編付載の目録によれば,100回本《水滸伝》にならい100条まで書きつぐ予定であったらしい。この綾足の系譜も《水滸伝》ブームの大きな一環であった。
これ以降〈水滸伝物〉と呼ばれる翻案物が数多く著されるようになった。1777年(安永6)には,馬琴の《南総里見八犬伝》の着想を導いた点に文学史的価値があるといわれる仇鼎散人(きゆうていさんじん)の《日本水滸伝》が刊行された。伊丹椿園は,《水滸伝》の豪傑を足利時代の女性に変えた点に独自な着想が見られる《女水滸伝》を著した。これもまた馬琴の合巻《傾城(けいせい)水滸伝》に影響を与えた。水滸伝物の流行は江戸の草双紙類にも浸透するようになり,山東京伝は1789年(寛政1)刊の洒落本《通気粋語伝》で《水滸伝》を翻案し,また92年刊の黄表紙《梁山一歩談》《天剛垂楊柳(てんごうすいようりゆう)》にその梗概を綴り,ついで94年には振鷺亭が《水滸伝》の趣向を世話狂言に仕立てた《いろは酔故伝》を出したが,文字の世界を超えて演劇の世界と《水滸伝》を接合させるというこの着想を受けて,馬琴の読本処女作《高尾船字文》が出た。これは《水滸伝》の一部を人形浄瑠璃や歌舞伎の名作《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の枠組みの中に複合し,道徳的教訓を盛って御家騒動物に仕立てたものである。一方,山東京伝もまた《仮名手本忠臣蔵》と《水滸伝》をとり合わせ,読本《忠臣水滸伝》前編を99年,後編を1801年(享和1)に刊行した。広く人口に膾炙(かいしや)されていた《忠臣蔵》の構想を借りたことや,半紙本,その巻頭を口絵で飾るという斬新な体裁がうけ,大評判を得,内容・体裁ともに江戸読本の典型がここに確立した。馬琴にとって《本朝水滸伝》を読んで以来,〈日本の水滸伝〉を書くことが長年の課題であったが,ついに1814年(文化11)に,生涯の大作となった読本《南総里見八犬伝》第1輯を刊行した。以降28年間の長きにわたって刊行された《八犬伝》は,全体の構想は《水滸伝》を範としつつも,部分的には《三国志演義》《西遊記》《捜神記》等の中国典籍や,《北条五代記》《甲陽軍鑑》《里見記》等の日本の史書を資料とし,単なる模倣を超えて,まさに換骨奪胎の妙味を発揮した作品といえよう。以上概観しただけでも,京伝,馬琴という二大作家の読本処女作や,馬琴畢生の作が水滸伝物であり,いかに読本の世界に《水滸伝》が影響を与えていたかがうかがわれる。
執筆者:松田 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報