水谷村(読み)みずたにむら

日本歴史地名大系 「水谷村」の解説

水谷村
みずたにむら

[現在地名]鹿野町水谷

東志加奴ひがししかぬ村の南、水谷川の中流域、鷲峰じゆうぼう山の北麓に位置する。枝郷の小畑おばた奥水谷おくみずたに村ともよばれ、本村の南奥一〇町ばかりの所にある(因幡志)。拝領高は一三一石余、本免は五ツ七分。藪役銀二九匁二分五厘が課せられ(藩史)、荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三〇。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高二〇五石余、竈数四五。「因幡民談記」は産物として竹・独活・蕨・山芋などをあげる。「因府年表」によると、寛延三年(一七五〇)当村の奥、鷲峰山の麓にあるいわ権現が繁盛した。


水谷村
みずがいむら

[現在地名]小高町水谷

西の泉沢いずみさわ(かつての大久村)の枝郷。明暦二年(一六五六)大久だいひさ村から分村(相馬藩政史)、天保郷帳では泉沢村に「古者 大久村・水谷村弐ケ村」と注記される。応永二年(一三九五)一〇月二一日の相馬憲胤譲状(相馬文書)によると、吉名よしな村に付属して「水谷田在家等山野共仁」が憲胤の子息胤弘に譲られているが、これは当地のことと考えられる。明暦二年の高一〇五石余(相馬藩政史)元禄郷帳に大久村枝郷と注記され高一五二石余。なお元禄検地高は二一九石余、ほかに新田五二石余がある(奥相志)


水谷村
みずたにむら

[現在地名]日南町笠木かさぎ

南東から北東に緩やかに流れを変える笠木川右岸の山麓の村。北東はぼう村、南は大入だいにゆう峠を経て矢戸やと村に至る。拝領高は五五石余、本免は五ツ四分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七四石余、竈数九。安政四年(一八五七)の切畑帳(日南町役場蔵)によると切畑二町三反余の高四石余、物成二石余。「伯耆志」では林二〇町七反余、家数九・人数四七、鑪山として野路のろ山があった。


水谷村
みずたにむら

[現在地名]八尾町水谷

妙川寺みようせんじ村の北方、井田いだ左岸にある。正保郷帳村名みえ、村高は妙川寺村と合せて四〇〇石余、田方一九町一反余・畑方七町五反、新田高四九石余。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では高三〇〇石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高三二六石余。寛政二年(一七九〇)の古高は三一三石余・定免四ツ、新田高二八石余・平均免一ツ二歩八厘余、銀納畠が二千七三四歩(一〇〇歩につき一匁八分)、定小物成銀は山役一七三匁余・銀納林九匁余(高物成品々手鏡)


水谷村
みたにむら

[現在地名]西区玉津町水谷たまつちようみたに

櫨谷はせたに川下流の左岸に位置し、南は高津橋こうづばし村。寛文年間(一六六一―七三)初期に開発された新田村(采邑私記)、元禄郷帳に村名がみえ、高一八八石余。天保郷帳では高一九三石余。旧高旧領取調帳では高二〇八石余。


水谷村
すいだにむら

[現在地名]多賀町水谷

栗栖くるす村の北方、せり川の一支谷中にある。寛永石高帳に高一三〇石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男一一二・女一一三、寺社方男一一・女二〇。


水谷村
みずたにむら

[現在地名]福井市水谷町

大味おおみ川支流域の谷間宿堂しゆくどう村の西に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高三〇・八二石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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