氷上塩焼(読み)ひかみのしおやき

改訂新版 世界大百科事典 「氷上塩焼」の意味・わかりやすい解説

氷上塩焼 (ひかみのしおやき)
生没年:715?-764(霊亀1?-天平宝字8)

奈良時代賜姓皇族。はじめ塩焼王と称した。新田部親王の子で廃太子道祖(ふなど)王の兄,妻は聖武の娘不破内親王,その子が志計志麻呂(しけしまろ),川継(かわつぐ)。733年(天平5)無位から従四位下となり,740年藤原広嗣の乱がおこって聖武天皇が伊勢,美濃近江行幸したおり,御前次第司長官に任じられ,正四位下となる。742年恭仁(くに)宮から近江国紫香楽(しがらき)村への行幸にさいし御前次第司となるが,女孺のことで不興をかい女孺とともに平城京の獄に下され,ついで伊豆国三島に配流された。745年入京を許され,746年もとの正四位下に復し,756年(天平勝宝8)聖武上皇が没すると山作司となる。757年(天平宝字1)皇太子道祖王が廃され皇嗣が議論されたおり,右大臣藤原豊成,中務卿藤原永手は塩焼王を立てようとしたが,勅によって塩焼は聖武が無礼を責めたとして退けられている。同年正四位上,大蔵卿となり,橘奈良麻呂の変には安宿王,黄文王,道祖王とともに擁立されようとしたが,謀議に参加せず,道祖王に連座して遠流とすべきところ,父新田部親王功績によって免ぜられ,臣籍に降下して氷上真人と称したようである。758年従三位,759年三世王以下に上日(出勤日数)にかかわらず春秋禄を給されるようにとの封事を提出して施行され,同年礼部(治部)卿。760年光明皇后が没すると山作司,御前次第司となり,762年信部(中務)卿,参議,ついで中納言となる。764年文部式部)卿となるが,恵美押勝の乱にさいし押勝により今帝に偽立されたが,押勝とともに誅殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「氷上塩焼」の意味・わかりやすい解説

氷上塩焼
ひかみのしおやき
(?―764)

奈良時代の官人。天武(てんむ)天皇の皇子新田部(にいたべ)親王の子。初め塩焼王という。道祖(ふなど)王の兄。妻は不破(ふわ)内親王。742年(天平14)事に座し伊豆国三嶋(みしま)に流されたが、4年後に許されて正四位下の本位に復した。757年(天平宝字1)3月皇太子道祖王が廃せられると、皇太子候補となったが、先に罪を得たという理由で退けられた。同年7月の橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に加わり捕らえられたが、新田部親王の家門を絶つに忍びずとしてとくに許され、翌年には氷上真人(まひと)の姓を賜った。のち中納言(ちゅうなごん)に上り文部(もんぶ)(式部(しきぶ))卿(きょう)を兼ねたが、764年藤原仲麻呂(なかまろ)が謀反を起こして、塩焼をたてて今帝(いまのみかど)と称したため、仲麻呂とともに斬刑(ざんけい)に処された。なお、唐招提寺(とうしょうだいじ)は彼の宅(新田部親王旧宅)に建立されたものという。

[平田耿二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「氷上塩焼」の意味・わかりやすい解説

氷上塩焼
ひかみのしおやき

[生]霊亀1(715)
[没]天平宝字8(764).9.18.
奈良時代の廷臣。新田部親王 (天武天皇皇子) の子。一時,事に座し,伊豆三島に配流されていたが,天平 17 (745) 年許され翌年正四位下に復した。天平宝字1 (757) 年には皇太子の候補にもなった。のち橘奈良麻呂の乱に連座したが,罪を免じられ中納言にまで昇進。しかし同8年藤原仲麻呂に奉じられて帝と称されたが,仲麻呂が誅されたとき塩焼も運命をともにした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「氷上塩焼」の解説

氷上塩焼 ひかみの-しおやき

塩焼王(しおやきおう)

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