鎌倉時代、曹洞(そうとう)宗の僧。別名を道玄、希玄(きげん)とも称する。俗姓は源氏。
[鏡島元隆 2017年9月19日]
内大臣久我通親(こがみちちか)(1149―1202)の子。一説に通親の子通具(みちとも)(1171―1227)の子ともいう。母は藤原基房(ふじわらのもとふさ)の女(むすめ)(三女の伊子(いし)(?―1207)と推定される)。正治(しょうじ)2年京都に生まれ、3歳にして父を、8歳にして母を失う。13歳の年、比叡山(ひえいざん)横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の般若谷(はんにゃだに)千光房(せんこうぼう)に投じ、1213年、戒壇院(かいだんいん)において座主(ざす)公円(1168―1235)に就いて受戒する。比叡山に修学中、人は本来仏性(ぶっしょう)を具(そな)えているのに、なにゆえに三世の諸仏は発心(ほっしん)して悟りを求めたのかという疑問をおこし、これを山内外の学匠に尋ねたが、いずれにも満足な解答を得ず、ついに18歳の年、栄西(えいさい)の開いた建仁寺に投じた。道元が栄西に相見したかどうかには賛否両説があるが、否定説が有力である。建仁寺において、栄西の高弟明全(みょうぜん)(1184―1225)に師事し、のち1223年(貞応2)24歳の年、明全とともに入宋(にっそう)した。入宋の動機は、比叡山でおこした宗教的疑問の解決にあるが、入宋を促した背景には、1221年(承久3)勃発(ぼっぱつ)した承久(じょうきゅう)の乱の事後処理が、道元の宗教心を駆り立てたことによるといわれ、また1219年鎌倉八幡(はちまん)宮で横死した将軍源実朝(みなもとのさねとも)の遺志を実現するために、その妻室や家臣が入宋を支援したことによるともいう。入宋した道元は、いったん天童山景徳(けいとく)寺に滞在したが、1224年ひとり諸山遍歴の旅にのぼり、育王山広利寺、径山(きんざん)万寿寺、天台山万年寺などを歴訪し、ふたたび天童山に帰り、1225年(嘉禄1)5月1日、初めて住持の天童如浄(てんどうにょじょう)に面謁(めんえつ)し、一見して弟子入りがかなう。これより先、明全は病を得て、同年4月27日天童山了然(りょうねん)寮で示寂している。道元は如浄のもとで厳しい教導を受けること前後3年に及んだが、身心脱落し、如浄の印証を得て、1227年(安貞1)28歳のとき、同行した明全の遺骨を抱いて帰朝した。
帰朝後、しばらく建仁寺にとどまったが、1230年(寛喜2)山城(やましろ)(京都府)深草の安養院(あんよういん)に閑居し、1233年(天福1)藤原教家(のりいえ)(1194―1255)や正覚尼(しょうがくに)(生没年不詳)らの請(しょう)によって山城に観音(かんのん)導利院興聖(こうしょう)宝林寺(興聖寺)を開いた。ここに住すること10年余ののち、1243年(寛元1)檀越(だんおつ)波多野義重(はたのよししげ)(生没年不詳)の領地である越前(えちぜん)(福井県)志比荘(しびのしょう)に向かった。道元の北越入山の理由については、比叡山の圧迫によるとか、東福寺を中心とする円爾(えんに)の禅の進出によるなどと種々説かれるが、内面の理由は師の『如浄語録』の到来を期として、「真実の仏法を挙揚するために深山幽谷(ゆうこく)に居せよ」という如浄の遺誡(いかい)が道元の心に強くよみがえり、義重の勧誘を受け入れたものと思われる。入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)し、1244年大仏寺をおこして開堂し、2年後に大仏寺を永平寺と改めた。10年間を永平寺に住し、そこで畢生(ひっせい)の著述『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の撰述(せんじゅつ)と弟子の養成に全力を尽くした。その間、1247年(宝治1)北条時頼(ほうじょうときより)の請に応じて鎌倉に下向したが、翌1248年永平寺に帰る。1252年(建長4)夏病気となり、翌1253年7月には後事を第一の弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲り、8月、波多野義重の勧めにより療養のため上洛(じょうらく)したが、同月28日に高辻(たかのつじ)西洞院(にしのとういん)の俗弟子覚念の邸において54歳で示寂した。遺偈(ゆいげ)に「五四年第一天を照らす。箇の跳(ぼっちょう)を打(た)して大千を触破(しょくは)す。渾身(こんしん)覓(もと)むるなく、活(い)きながら黄泉(こうせん)に落つ」がある。滅後601年の1854年(安政1)孝明(こうめい)天皇より「仏性伝東国師」の諡号(しごう)を賜り、また1879年(明治12)明治天皇より「承陽(じょうよう)大師」の諡号を加賜された。
道元の門弟には、懐奘、詮慧(せんね)(生没年不詳)、僧海(そうかい)(生没年不詳)、義介(ぎかい)、義演(ぎえん)(?―1314)、義尹(ぎいん)、寂円(じゃくえん)(1207―1299)、義準(ぎじゅん)(生没年不詳)らがある。このうち、道元の法を嗣(つ)いだ弟子は懐奘ひとりとも、また詮慧、僧海を含む3人ともいう。懐奘は永平寺第2代であり、道元を助けて永平寺僧団を守り、『正法眼蔵』の大著を完成させた陰の功労者である。詮慧は京都永興寺(ようこうじ)の開山であり、その弟子経豪(きょうごう)とともに『正法眼蔵』の最古の注釈である『御聞書抄』を著した。僧海は早逝してその伝をとどめない。
[鏡島元隆 2017年9月19日]
道元の著述には、『正法眼蔵』95巻、『永平広録』10巻、『永平清規(しんぎ)』2巻、『学道用心集』1巻、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻、『宝慶記(ほうきょうき)』1巻、『傘松道詠(さんしょうどうえい)』1巻などがある。このうち、『永平清規』は、「典座(てんざ)教訓」「弁道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぼう)」「衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)」「対大己法(たいたいこほう)」「知事(ちじ)清規」の6編からなる。各編はそれぞれ単独に著された叢林(そうりん)の規矩(きく)に関する著述であって、のちに『永平清規』としてまとめられたのである。『正法眼蔵』は、道元の代表的著述として著名である。道元の『正法眼蔵』には仮名の『正法眼蔵』と漢文の『正法眼蔵』があって、漢文の『正法眼蔵』は、中国臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう)の同名の著述『正法眼蔵』3巻と深いかかわりがある。仮名『正法眼蔵』は道元自らの手により執筆され編集されたものであるが、これが『正法眼蔵』として成立したのは、弟子懐奘の献身的協力によるものであり、一説には『正法眼蔵』の編集は懐奘の手に成るともいわれる。『正法眼蔵』の思想の特質は、75巻本『正法眼蔵』の第一が「現成公案(げんじょうこうあん)」巻から始まるように、現成公案の思想を示すことにある。現成公案とは「現に成立しているものは絶対の真理である」ということである。道元によれば、あらゆるものは現に成立しているものであり、絶対の真理であって、人間もあらゆるものの一つとして絶対の真理に生かされているのである。これを示すものが『正法眼蔵』である。道元はこの現成公案の真理は、代々の仏祖によって正しく伝えられ、この現成公案の世界は只管打坐(しかんたざ)(ただひたすら坐禅すること)によって開かれるとする。したがって、『正法眼蔵』は正伝(しょうでん)の仏法と只管打坐を中心として説かれる。
道元の説く正伝の仏法とは、禅を禅宗としてとらえないで全仏法としてとらえることである。道元が入宋した当時の中国の宋朝禅は、臨済宗、曹洞宗、法眼(ほうげん)宗、潙仰(いぎょう)宗、雲門(うんもん)宗の五家(ごけ)に分かれ、さらに臨済宗は黄竜(おうりゅう)派と楊岐(ようぎ)派に分派していた。これら五家七宗(ごけしちしゅう)の禅は、外に対しては禅宗として教外別伝(きょうげべつでん)(教義を心から心へ直接伝えること)を唱え、内に対してはそれぞれの家風にたって自派の優勢を誇ったのであるが、道元は、禅の本旨は五家分派以前の全仏法にあるとし、禅宗の宗名を排し、正伝の仏法を強調したのである。
道元の示す只管打坐は、宋朝に成立した看話禅(かんなぜん)が公案の工夫を中心とする坐禅であるのに対し、ただ坐禅することを強調するものである。只管打坐は「証上の修」または「本証妙修」といわれる。それは看話禅が凡夫(ぼんぷ)より仏に向かう修行であるのに対し、仏になるための修行でなく、それ自体が仏行であるとする。道元はこのように現成公案の真理は、正伝の仏法によって伝えられ、只管打坐によって開かれるとするもので、この思想は道元の全著作の基調となっている。
[鏡島元隆 2017年9月19日]
『玉城康四郎編『日本の思想 2 道元集』(1969・筑摩書房)』▽『大久保道舟著『道元禅師伝の研究』修訂増補版(1966・筑摩書房/複製・1988・名著普及会)』▽『竹内道雄著『道元』(1962/新稿新装版・1992・吉川弘文館)』▽『鏡島元隆・玉城康四郎編『講座 道元』全7巻(1979~1981・春秋社)』
鎌倉中期の禅僧で,日本曹洞宗の開祖。内大臣源通親を父,摂政太政大臣松殿藤原基房の娘を母として,宇治木幡(京都)の松殿山荘で生まれたが,はやく両親に死別した。1212年(建暦2)春,養父で伯父の藤原師家が制止するのを振り切って,外叔父の良顕を比叡山麓に訪ね,その手引きで横川(よかわ)の首楞厳(しゆりようごん)院に赴き,般若谷の千光房に入った。翌13年(建保1)天台座主公円について剃髪し,戒壇院で菩薩戒を受けて,仏法房道元と名のり,天台宗の教学を修めたが,いっさいの衆生はもともと仏であると天台宗では教えるのに,すでに仏である人がなぜ修行しなければならないか,という疑問が解けず,比叡山での修行に見切りをつけて,三井寺の公胤(こういん)を訪ねた。しかし,公胤もそれには答えず,中国で禅宗を学んでくるのがよいと入宋を勧めたので,17年秋,まず建仁寺に赴いて,栄西門下の明全(みようぜん)に参じた。ついで23年(貞応2)明全らと入宋し,浙江省天童寺に赴いて,臨済宗大恵(だいえ)派の無際了派に参じた。その間に惟一,宗月,伝蔵主などが所持していた臨済宗各派の嗣法書(しほうしよ)を見,また23年(嘉定16)秋には阿育王山(あいおうざん)広利寺にも赴くなど,各種の禅体験を積んだ。翌24年天童寺の無際が寂したので,25年(宝慶1)春,径山(きんざん)に赴いて無際の法兄浙翁如琰(せつおうによえん)に参じた。そののち天台山に赴いて,万年寺の元鼒(げんし)に参じてその嗣書を見,明州では大梅法常ゆかりの護聖(ごしよう)寺に詣で,台州の小翠岩で大恵派の盤山思卓にまみえ,また鎮江の雁山能仁寺に赴くなど,諸寺歴訪の旅を続け,大陸禅の体験を深めたが,老僧璡(しん)の勧めを思い起こし,天童寺に赴いて如浄(によじよう)に参じて入室問法の末,ついに大悟した。
その後,如浄に学ぶこと3年,27年(安貞1)に帰国して,建仁寺に身を寄せた。ここに道元は,如浄から受け継いできた釈尊正伝の仏法の絶対性を固く信じて,坐禅こそ仏法の正門であり,しかも大安楽の法門であるとして,《普勧坐禅儀》を著し,坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧めた。そのため,天台衆徒の弾圧を招くに至り,30年(寛喜2)ごろ,建仁寺を追われて深草の安養院に赴いた。しかし,そののちも如浄から学んだ仏法こそ釈尊の説いた仏教の神髄であるという信念から,精力的に説法を続け,主著《正法眼蔵(しようぼうげんぞう)》の述作を開始して,天台,真言,臨済,真宗などの諸宗に鋭い批判を浴びせ,末法思想や念仏,祈禱などを厳しく非難した。やがて33年(天福1)ごろ,正覚尼(しようかくに),九条教家などの寄進によって,もと極楽寺の一部であった深草の観音導利院を中心に一寺を建立し,観音導利興聖宝林禅寺とした。伽藍が整備され,入門者が増加したため,37年(嘉禎3)春に《典座教訓(てんぞきようくん)》を著して,深草の興聖寺教団の修行生活を厳しく規正した。
1234年(文暦1)冬に大日能忍門下の孤雲懐奘(えじよう)が,ついで越前波著(はぢやく)寺から大日派の覚禅懐鑑(えかん),徹通義介(てつつうぎかい)など臨済宗大恵派の人々が相ついで集団入門をとげたので,道元の深草教団は充実し,にわかに活況を呈した。そのために,天台衆徒の圧迫が再び激しくなった。道元はみずからの立場を守るために,自分が伝えた禅宗こそ国家護持のための正法であることを力説した《護国正法義》を著した。早速,比叡山側はそれに対する非難を朝廷に訴え,朝廷もその言い分を認めたので,道元に対する天台衆徒の弾圧はいっそう激化した。そのうえ,43年(寛元1)3月,深草の興聖寺教団に近い月輪山荘に,弁円が藤原一門の絶大な庇護を受けて東福寺を建立し,天台,真言,臨済の3宗を併置したので,東福寺の教団からも大きな脅威を受けるに至った。このため,同年7月,道元は門下に集団加入した越前波著寺系の大恵派の人々の働きかけと,俗弟子の波多野義重の招きを受けて,その所領である越前志比庄に下り,翌年大仏寺を開いた。
1246年(寛元4)6月,大仏寺を永平寺と改め,法名をみずから道元から希玄に改めた。そののちも一段と厳しい修行にうちこみ,ついに在家成仏や女人成仏をも否定して,出家至上主義の傾向を強めていった。その間,47年(宝治1)北条時頼の招きを受けて一時鎌倉に下ったが,すぐまた越前に戻り,やがて永平寺を懐奘に譲って,53年(建長5)8月28日,高潔無比の生涯を京の宿で閉じた。のちに孝明天皇から仏性伝東国師,明治天皇から承陽大師と勅諡(ちよくし)された。弟子に孤雲懐奘のほか詮恵,僧海などがいる。著作に仮名法語集《正法眼蔵》75巻本,12巻本のほか,《普勧坐禅儀》1巻,《宝慶記》1巻,《学道用心集》1巻,《永平清規》などがある。鎌倉時代を代表する偉大な宗教家であると同時に,日本人として稀有(けう)な思想家であったが,その根本思想は瑩山紹瑾(じようきん)によって拡大解釈され,現在1万5000余ヵ寺を擁する曹洞宗に受け継がれている。
→曹洞宗
執筆者:今枝 愛真
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(長谷川三千子)
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1200.1.2~53.8.28
鎌倉中期の僧で日本曹洞宗の開祖。法諱は希玄(きげん)。号は仏法房。京都生れ。父は内大臣源通親,母は摂政太政大臣藤原基房の女伊子。幼少のとき父母に死別し,13歳で比叡山で出家,天台教学を学んだ。人は本来,仏であるのに修行しなければならないという疑問を解くため山を下り,栄西の弟子明全(みょうぜん)に参じた。1223年(貞応2)明全とともに入宋,5年間の滞在中に天童山の如浄に参じ得悟した。帰国後「普勧坐禅儀」を著し,坐禅の方法などを説いた。一時建仁寺に身を寄せたが深草に移り,33年(天福元)興聖寺を開き,主著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の著述を開始し,禅の宣揚に努めた。その間比叡山・東福寺などの圧迫があったため,43年(寛元元)門弟波多野義重の招きで越前に移り永平寺を開いた。出家主義にもとづくきびしい修行のもとに教団を形成した。晩年は弟子懐奘(えじょう)に寺を譲り,京都で没した。
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…越前にある本山の意より越山(えつさん)とも通称される。日本曹洞宗初祖道元の開創。道元ははじめ,山城宇治に興聖寺を開き,ここで叢林生活を営んでいたが,僧団の拡大や旧仏教の圧迫により,越前に所領を有する覚念や,志比庄地頭波多野義重の招聘を受け,1243年(寛元1)日本達磨宗の徒らを率いて越前に赴いた。…
…これらの荘園の地頭は断片的にしか追認できないが,地頭による荘園侵略は進み,醍醐寺が〈一荘滅亡〉と訴えた鎌倉初期の牛原荘や,下地中分が成立した小山荘など事例は多い。曹洞宗の開祖道元は叡山の迫害をのがれて1243年(寛元1)京都から越前志比荘に下向した。これは集団で入門した越前波着(はじやく)寺の懐鑑(えかん)や道元に学んだ徹通義介ら越前と関係の深い人々の勧めに負うところが大きいと考えられるが,やはり志比荘の地頭波多野義重の勧誘も動機の一つであろう。…
…日本曹洞(そうとう)宗の開祖道元の主著。95巻。…
…道元が嘉禎年間(1235‐38),日常その門下に語った修行の心がまえを,弟子の懐奘(えじよう)(1198‐1280)が克明に記録したもの。6冊の書冊にまとめられたのは懐奘没後のことである。…
… 鎌倉期に興った浄土宗,浄土真宗,日蓮宗などは教義的には天台宗の流れをくむものであり,仏教儀式や声明もそれを基盤としつつ,それぞれ独自に展開していった。また臨済宗,曹洞宗を開いた栄西(えいさい)と道元はほかの鎌倉仏教の開祖と同様に一時比叡山に学んでいるが,中国に渡り宋代の禅宗を伝え,その後臨済,曹洞両宗は天台,真言両声明の影響をうけつつ中国的な性格を含んだ仏教儀式を整えていく。江戸初期には明僧隠元が中国臨済宗の系統に属する黄檗(おうばく)宗を開き,同時に中国明代の儀式や声明(梵唄と称す)がもたらされて,現在でもなお中国的色彩の濃厚な儀式,音楽が行われている。…
…古来,中国の文明を受け続ける日本民族は,禅を学ぶことによって,受容より創造に転じ,中国のそれよりも,いっそう純粋な創造に成功するのである。禅という宗名すら拒否して,ひたすらに座禅に徹するとともに,全一の仏法を挙掲しつづける道元や,禅院の周辺に,学問,文学,工芸など無数の生活文化を生みだす中世日本の臨済禅は,方向を異にしつつ,ともにもっとも日本的である。道元の思想には,日本民族の域を超える国際性があり,臨済系の禅文化には,中世的な宗教文化の域を超える,広い近代精神の自在さがある。…
…日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。…
…その禅風は《人天眼目三》に〈曹洞宗は家風細密にして言行相応し,機に随って物を利し,語に就いて人を接す〉とあり,奔放な禅機を用いず,綿密に弟子たちを指導することにあり,教説は五位説を基礎として,差別即平等,円融無礙(むげ)の理を自覚することを内容とする。 日本曹洞宗には3伝あり,まず道元は,宋に留学して天童山景徳寺の如浄に師事し,雲居道膺―同安道丕(どうひ)―同安観志(かんし)―梁山縁観(えんかん)―大陽警玄(きようげん)―投子義青(ぎせい)―芙蓉道楷(どうかい)―丹霞子淳(しじゆん)―真歇清了(せいりよう)―大休宗珏(そうかく)―足庵智鑑(ちかん)―如浄(によじよう)と伝わる法灯を継いで,1227年(安貞1)帰国した。道元はまず建仁寺にとどまり《普勧坐禅儀》を著して正しい座禅の行法を示し,只管打坐(しかんたざ)の禅風を宣揚せんとし,33年(天福1),山城宇治に観音導利院興聖宝林寺を開き,日本で初めて清規(しんぎ)にのっとった叢林(禅の修行道場)の生活指導を行った。…
…宏智正覚がここに住してからにわかに盛大となり,虚菴懐敞のときに,栄西が入宋して,その法を伝えるとともに千仏閣を重建する。ついで長翁如浄のとき,明全と道元が入宋伝法している。明代編集の天童寺志が数種ある。…
…道元が宋から帰国した1227年(安貞1)に著した,開教伝道の宣言書ともいうべきもの。1巻。…
… 鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は1191年(建久2)帰国した栄西が,曹洞禅は1227年(安貞1)道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字(ふりゆうもんじ)を旨とし,坐禅や公案(こうあん)を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。…
…破関はリズム,撃節は調子を合わせることである。流布本は,元代に再編された刊本によるが,道元が宋より伝えたという刊本以前の写本も存する。古くより,公案集の代表とみられ,宗門第一の書とよばれて,中国と日本の禅宗に大きく影響し,近代,ヨーロッパの言葉に訳されたものも,幾種かある。…
※「道元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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