コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

道元 どうげん

8件 の用語解説(道元の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

道元
どうげん

[生]正治2(1200).1.2. 京都
[没]建長5(1253).8.28. 京都
鎌倉時代の禅僧。日本曹洞宗の開祖。字は希玄。久我通親の子。 13歳のとき比叡山横川の僧坊にとどまり,翌年出家。建保2 (1214) 年建仁寺の栄西 (えいさい) に入門,高弟明全について修学し,ついに臨済の印可を受けた。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

どうげん〔ダウゲン〕【道元】

[1200~1253]鎌倉前期の禅僧。京都の人。日本曹洞宗の開祖。内大臣久我通親の子。諱(いみな)は希玄。比叡山で修学し、のち入宋して天童如浄の法を嗣(つ)いだ。帰国後、建仁寺に住し、京都に興聖寺を、さらに波多野義重の請により越前永平寺を開いた。勅諡号(ちょくしごう)、仏性伝東国師・承陽大師。著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀」「学道用心集」など。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

道元【どうげん】

鎌倉時代の仏僧。曹洞(そうとう)宗(日本)の開祖。勅諡(ちょくし)は承陽大師。希玄と号す。内大臣久我通親の子。幼くして比叡山に上ったが,その教学に疑問をもち栄西について禅を学び,1223年明全(みょうぜん)とともに入宋し,天童山で如浄の印可を受け,1228年帰国した。
→関連項目加藤景正鎌倉仏教興聖寺座禅清規禅宗僧堂大慈寺天台宗仏教横川

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

道元 どうげん

1200-1253 鎌倉時代の僧。
正治(しょうじ)2年1月2日生まれ。源通親(みちちか)(一説に源通具(みちとも))と藤原基房(もとふさ)の娘の子。日本曹洞(そうとう)宗の開祖。13歳のとき比叡(ひえい)山で出家,ついで明全(みょうぜん)に師事。貞応(じょうおう)2年師とともに宋(そう)(中国)にわたり,如浄に曹洞禅をまなぶ。嘉禄(かろく)3年帰国。のち京都から越前(えちぜん)(福井県)にうつり,寛元2年大仏寺(のち永平寺)を創建。只管打坐(しかんたざ)を説き,「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」などを執筆した。建長5年8月28日死去。54歳。号は希玄(きげん)。字(あざな)は仏法房。諡号(しごう)は仏性伝東国師。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

道元

没年:建長5.8.28(1253.9.22)
生年:正治2.1.2(1200.1.19)
鎌倉時代の禅僧で,日本曹洞宗の宗祖。号は希玄。内大臣源通親と太政大臣藤原基房の娘の子。宇治木幡(京都府)に生まれるが,幼くして両親を失う。13歳のときに,外叔父の良観を頼って比叡山を訪ね翌年の建保1(1213)年,剃髪して仏門に入る園城寺の公胤にも学ぶが,天台宗に疑問を持ち,建仁寺に赴いて栄西の弟子・明全に参じた。その後,貞応2(1223)年,明全と共に宋に渡る。諸山を遍歴したのち,入宋2年目に天童山の如浄 に師事,学ぶこと3年,そこで悟りをうる。安貞1(1227)年,28歳の夏に帰国。仏法の正門は座禅にあるとし,寛喜2(1230)年ごろに『正法眼蔵』を書き始めた。34歳で京都・深草に興聖宝林禅寺を開き,説法と執筆にいそしむ。徹通義介などが相次いで入門してきたが,道元に対する天台宗からの圧迫は激しくなり,寛元1(1243)年7月,越前(福井県)に移り翌年に大仏寺を開いた。のち永平寺と改め,同寺を孤雲懐奘に譲り,54歳の夏に入寂。 道元は知的な宗教思想家として知られるが,それは彼が,座禅と修行を重んじたことと矛盾しない。比叡山で,「本来本法性 天然自性身」(人はみな本来仏法をそなえており,そのままですでに仏である)なる言葉に出あい,では,人はなぜ修行しなければならないのか,と疑問を持ったことが,彼の仏道究学の出発点となる。後年,入宋して如浄のもとで座禅に励むうちに,如浄が居眠りする僧を叱責するのを聞いてたちまち悟りをえ,「身心脱落」の一語を得た。以来,自己に本来そなわっている仏法も,修行によって初めて現れ成就するものだという確信が,その仏法の基盤となる。この「身心脱落」の境地は,いいかえれば,世界の真理の体得の境地でもあった。修行によって自己の身心が澄み切った水のごとく透明になるとき,そこに世界の森羅万象が隠れなく映し出されることになる。 そのさまは,『正法眼蔵』1巻の「仏道をならふといふは自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは,万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは,自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり」と語られている。 道元においては,このように悟りと修行と済度(未だ悟らぬ人々を救うこと)がすべてひとつながりとなっている。また,その悟りは,各人の勝手な思い込みによるものではなくて,釈迦から代々の仏祖を通じて「正伝」してきたものとしてとらえられている。自らの教えを,ただ「仏道」とよんだのも,それが釈迦の教えの正しい伝承・再現であるという自信の故であった。『正法眼蔵』の他,『永平広録』『学道用心集』などがある。<参考文献>孤雲懐奘『正法眼蔵随聞記』,西有穆山『正法眼蔵啓迪』,安谷白雲『正法眼蔵参究』,和辻哲郎「沙門道元」(『和辻哲郎全集』4巻所収),寺田透『正法眼蔵を読む』,森本和夫『正法眼蔵入門』

(長谷川三千子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

どうげん【道元】

1200‐53(正治2‐建長5)
鎌倉中期の禅僧で,日本曹洞宗の開祖。内大臣源通親を父,摂政太政大臣松殿藤原基房の娘を母として,宇治木幡(京都)の松殿山荘で生まれたが,はやく両親に死別した。1212年(建暦2)春,養父で伯父の藤原師家が制止するのを振り切って,外叔父の良顕を比叡山麓に訪ね,その手引きで横川(よかわ)の首楞厳(しゆりようごん)院に赴き,般若谷の千光房に入った。翌13年(建保1)天台座主公円について剃髪し,戒壇院で菩薩戒を受けて,仏法房道元と名のり,天台宗の教学を修めたが,いっさいの衆生はもともと仏であると天台宗では教えるのに,すでに仏である人がなぜ修行しなければならないか,という疑問が解けず,比叡山での修行に見切りをつけて,三井寺の公胤(こういん)を訪ねた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

どうげん【道元】

1200~1253) 鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。京都の人。号は希玄きげん。諡号しごう承陽大師。久我通親の子。比叡山で天台宗を、建仁寺で禅を学んだ。1223年入宋。帰国後、京都深草に興聖寺を開く。44年越前に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開創。修証一如・只管打坐しかんたざの純一の禅風で知られる。著「正法眼蔵」「永平清規」など。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

道元
どうげん
(1200―1253)

鎌倉時代、曹洞(そうとう)宗の僧。別名を道玄、希玄(きげん)とも称する。俗姓は源氏。[鏡島元隆]

生涯

内大臣久我通親(こがみちちか)の子。一説に通親の子通具(みちとも)の子ともいう。母は藤原基房(もとふさ)の女(むすめ)(三女の伊子(いし)と推定される)。正治(しょうじ)2年京都に生まれ、3歳にして父を、8歳にして母を失う。13歳の年、比叡山(ひえいざん)横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の般若谷(はんにゃだに)千光房(せんこうぼう)に投じ、翌年、戒壇院(かいだんいん)において座主(ざす)公円に就いて受戒する。比叡山に修学中、人は本来仏性(ぶっしょう)を具(そな)えているのに、なにゆえに三世の諸仏は発心(ほっしん)して悟りを求めたのかという疑問をおこし、これを山内外の学匠に尋ねたが、いずれにも満足な解答を得ず、ついに18歳の年、栄西(えいさい)の開いた建仁寺に投じた。道元が栄西に相見したかどうかには賛否両説があるが、否定説が有力である。建仁寺において、栄西の高弟明全(みょうぜん)に師事し、のち1223年(貞応2)24歳の年、明全とともに入宋(にっそう)した。入宋の動機は、比叡山でおこした宗教的疑問の解決にあるが、入宋を促した背景には、1221年(承久3)勃発(ぼっぱつ)した承久(じょうきゅう)の乱の事後処理が、道元の宗教心を駆り立てたことによるといわれ、また1219年鎌倉八幡(はちまん)宮で横死した将軍源実朝(さねとも)の遺志を実現するために、その妻室や家臣が入宋を支援したことによるともいう。入宋した道元は、いったん天童山景徳(けいとく)寺に滞在したが、翌年ひとり諸山遍歴の旅にのぼり、育王山広利寺、径山(きんざん)万寿寺、天台山万年寺などを歴訪し、ふたたび天童山に帰り、1225年(嘉禄1)5月1日、初めて住持の天童如浄(てんどうにょじょう)に面謁(めんえつ)し、一見して弟子入りがかなう。これより先、明全は病を得て、同年4月27日天童山了然(りょうねん)寮で示寂している。道元は如浄のもとで厳しい教導を受けること前後3年に及んだが、身心脱落し、如浄の印証を得て、1227年(安貞1)28歳のとき、同行した明全の遺骨を抱いて帰朝した。
 帰朝後、しばらく建仁寺にとどまったが、1230年(寛喜2)山城(やましろ)(京都府)深草の安養院(あんよういん)に閑居し、1233年(天福1)藤原教家(のりいえ)や正覚尼(しょうがくに)らの請(しょう)によって山城に観音(かんのん)導利院興聖(こうしょう)宝林寺(興聖寺)を開いた。ここに住すること10年余ののち、1243年(寛元1)檀越(だんおつ)波多野義重(よししげ)の領地である越前(えちぜん)(福井県)志比荘(しびのしょう)に向かった。道元の北越入山の理由については、比叡山の圧迫によるとか、東福寺を中心とする円爾(えんに)の禅の進出によるなどと種々説かれるが、内面の理由は師の『如浄語録』の到来を期として、「真実の仏法を挙揚するために深山幽谷(ゆうこく)に居せよ」という如浄の遺誡(いかい)が道元の心に強くよみがえり、義重の勧誘を受け入れたものと思われる。入越後しばらく吉峰寺(よしみねでら)、禅師峰(やましぶ)の古寺に仮寓(かぐう)し、1244年大仏寺をおこして開堂し、2年後に大仏寺を永平寺と改めた。10年間を永平寺に住し、そこで畢生(ひっせい)の著述『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の撰述(せんじゅつ)と弟子の養成に全力を尽くした。その間、1247年(宝治1)北条時頼(ときより)の請に応じて鎌倉に下向したが、翌1248年永平寺に帰る。1252年(建長4)夏病気となり、翌1253年7月には後事を第一の弟子孤雲懐奘(こうんえじょう)に譲り、8月、波多野義重の勧めにより療養のため上洛(じょうらく)したが、同月28日に高辻(たかのつじ)西洞院(にしのとういん)の俗弟子覚念の邸において54歳で示寂した。遺偈(ゆいげ)に「五四年第一天を照らす。箇の(ぼっちょう)を打(た)して大千を触破(しょくは)す。渾身(こんしん)(もと)むるなく、活(い)きながら黄泉(こうせん)に落つ」がある。滅後601年の1854年(安政1)孝明(こうめい)天皇より「仏性伝東国師」の諡号(しごう)を賜り、また1879年(明治12)明治天皇より「承陽(じょうよう)大師」の諡号を加賜された。
 道元の門弟には、懐奘、詮慧(せんね)、僧海(そうかい)、義介(ぎかい)、義演(ぎえん)、義尹(ぎいん)、寂円(じゃくえん)、義準(ぎじゅん)らがある。このうち、道元の法を嗣(つ)いだ弟子は懐奘ひとりとも、また詮慧、僧海を含む3人ともいう。懐奘は永平寺第2代であり、道元を助けて永平寺僧団を守り、『正法眼蔵』の大著を完成させた陰の功労者である。詮慧は京都永興寺(ようこうじ)の開山であり、その弟子経豪(きょうごう)とともに『正法眼蔵』の最古の注釈である『御聞書抄』を著した。僧海は早逝してその伝をとどめない。[鏡島元隆]

著述・思想

道元の著述には、『正法眼蔵』95巻、『永平広録』10巻、『永平清規(しんぎ)』2巻、『学道用心集』1巻、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』1巻、『宝慶記(ほうきょうき)』1巻、『傘松道詠(さんしょうどうえい)』1巻などがある。このうち、『永平清規』は、「典座(てんざ)教訓」「弁道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぼう)」「衆寮箴規(しゅりょうしんぎ)」「対大己法(たいたいこほう)」「知事(ちじ)清規」の6編からなる。各編はそれぞれ単独に著された叢林(そうりん)の規矩(きく)に関する著述であって、のちに『永平清規』としてまとめられたのである。『正法眼蔵』は、道元の代表的著述として著名である。道元の『正法眼蔵』には仮名の『正法眼蔵』と漢文の『正法眼蔵』があって、漢文の『正法眼蔵』は、中国臨済宗の大慧宗杲(だいえそうこう)の同名の著述『正法眼蔵』3巻と深いかかわりがある。仮名『正法眼蔵』は道元自らの手により執筆され編集されたものであるが、これが『正法眼蔵』として成立したのは、弟子懐奘の献身的協力によるものであり、一説には『正法眼蔵』の編集は懐奘の手に成るともいわれる。『正法眼蔵』の思想の特質は、75巻本『正法眼蔵』の第一が「現成公案(げんじょうこうあん)」巻から始まるように、現成公案の思想を示すことにある。現成公案とは「現に成立しているものは絶対の真理である」ということである。道元によれば、あらゆるものは現に成立しているものであり、絶対の真理であって、人間もあらゆるものの一つとして絶対の真理に生かされているのである。これを示すものが『正法眼蔵』である。道元はこの現成公案の真理は、代々の仏祖によって正しく伝えられ、この現成公案の世界は只管打坐(しかんたざ)(ただひたすら坐禅すること)によって開かれるとする。したがって、『正法眼蔵』は正伝(しょうでん)の仏法と只管打坐を中心として説かれる。
 道元の説く正伝の仏法とは、禅を禅宗としてとらえないで全仏法としてとらえることである。道元が入宋した当時の中国の宋朝禅は、臨済宗、曹洞宗、法眼(ほうげん)宗、(いぎょう)宗、雲門(うんもん)宗の五家(ごけ)に分かれ、さらに臨済宗は黄竜(おうりゅう)派と楊岐(ようぎ)派に分派していた。これら五家七宗(ごけしちしゅう)の禅は、外に対しては禅宗として教外別伝(きょうげべつでん)(教義を心から心へ直接伝えること)を唱え、内に対してはそれぞれの家風にたって自派の優勢を誇ったのであるが、道元は、禅の本旨は五家分派以前の全仏法にあるとし、禅宗の宗名を排し、正伝の仏法を強調したのである。
 道元の示す只管打坐は、宋朝に成立した看話禅(かんなぜん)が公案の工夫を中心とする坐禅であるのに対し、ただ坐禅することを強調するものである。只管打坐は「証上の修」または「本証妙修」といわれる。それは看話禅が凡夫(ぼんぷ)より仏に向かう修行であるのに対し、仏になるための修行でなく、それ自体が仏行であるとする。道元はこのように現成公案の真理は、正伝の仏法によって伝えられ、只管打坐によって開かれるとするもので、この思想は道元の全著作の基調となっている。[鏡島元隆]
『大久保道舟著『道元禅師伝の研究』(1966・筑摩書房) ▽竹内道雄著『道元』(1962・吉川弘文館) ▽玉城康四郎著『日本の思想 2 道元集』(1969・筑摩書房) ▽鏡島元隆・玉城康四郎編『講座 道元』全7巻(1979・春秋社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の道元の言及

【永平寺】より

…越前にある本山の意より越山(えつさん)とも通称される。日本曹洞宗初祖道元の開創。道元ははじめ,山城宇治に興聖寺を開き,ここで叢林生活を営んでいたが,僧団の拡大や旧仏教の圧迫により,越前に所領を有する覚念や,志比庄地頭波多野義重の招聘を受け,1243年(寛元1)日本達磨宗の徒らを率いて越前に赴いた。…

【越前国】より

…これらの荘園の地頭は断片的にしか追認できないが,地頭による荘園侵略は進み,醍醐寺が〈一荘滅亡〉と訴えた鎌倉初期の牛原荘や,下地中分が成立した小山荘など事例は多い。曹洞宗の開祖道元は叡山の迫害をのがれて1243年(寛元1)京都から越前志比荘に下向した。これは集団で入門した越前波着(はじやく)寺の懐鑑(えかん)や道元に学んだ徹通義介ら越前と関係の深い人々の勧めに負うところが大きいと考えられるが,やはり志比荘の地頭波多野義重の勧誘も動機の一つであろう。…

【正法眼蔵】より

…日本曹洞(そうとう)宗の開祖道元の主著。95巻。…

【正法眼蔵随聞記】より

道元が嘉禎年間(1235‐38),日常その門下に語った修行の心がまえを,弟子の懐奘(えじよう)(1198‐1280)が克明に記録したもの。6冊の書冊にまとめられたのは懐奘没後のことである。…

【声明】より

… 鎌倉期に興った浄土宗,浄土真宗,日蓮宗などは教義的には天台宗の流れをくむものであり,仏教儀式や声明もそれを基盤としつつ,それぞれ独自に展開していった。また臨済宗,曹洞宗を開いた栄西(えいさい)と道元はほかの鎌倉仏教の開祖と同様に一時比叡山に学んでいるが,中国に渡り宋代の禅宗を伝え,その後臨済,曹洞両宗は天台,真言両声明の影響をうけつつ中国的な性格を含んだ仏教儀式を整えていく。江戸初期には明僧隠元が中国臨済宗の系統に属する黄檗(おうばく)宗を開き,同時に中国明代の儀式や声明(梵唄と称す)がもたらされて,現在でもなお中国的色彩の濃厚な儀式,音楽が行われている。…

【禅】より

…古来,中国の文明を受け続ける日本民族は,禅を学ぶことによって,受容より創造に転じ,中国のそれよりも,いっそう純粋な創造に成功するのである。禅という宗名すら拒否して,ひたすらに座禅に徹するとともに,全一の仏法を挙掲しつづける道元や,禅院の周辺に,学問,文学,工芸など無数の生活文化を生みだす中世日本の臨済禅は,方向を異にしつつ,ともにもっとも日本的である。道元の思想には,日本民族の域を超える国際性があり,臨済系の禅文化には,中世的な宗教文化の域を超える,広い近代精神の自在さがある。…

【禅宗】より

…日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。…

【曹洞宗】より

…その禅風は《人天眼目三》に〈曹洞宗は家風細密にして言行相応し,機に随って物を利し,語に就いて人を接す〉とあり,奔放な禅機を用いず,綿密に弟子たちを指導することにあり,教説は五位説を基礎として,差別即平等,円融無礙(むげ)の理を自覚することを内容とする。 日本曹洞宗には3伝あり,まず道元は,宋に留学して天童山景徳寺の如浄に師事し,雲居道膺―同安道丕(どうひ)―同安観志(かんし)―梁山縁観(えんかん)―大陽警玄(きようげん)―投子義青(ぎせい)―芙蓉道楷(どうかい)―丹霞子淳(しじゆん)―真歇清了(せいりよう)―大休宗珏(そうかく)―足庵智鑑(ちかん)―如浄(によじよう)と伝わる法灯を継いで,1227年(安貞1)帰国した。道元はまず建仁寺にとどまり《普勧坐禅儀》を著して正しい座禅の行法を示し,只管打坐(しかんたざ)の禅風を宣揚せんとし,33年(天福1),山城宇治に観音導利院興聖宝林寺を開き,日本で初めて清規(しんぎ)にのっとった叢林(禅の修行道場)の生活指導を行った。…

【天童寺】より

…宏智正覚がここに住してからにわかに盛大となり,虚菴懐敞のときに,栄西が入宋して,その法を伝えるとともに千仏閣を重建する。ついで長翁如浄のとき,明全と道元が入宋伝法している。明代編集の天童寺志が数種ある。…

【普勧坐禅儀】より

…道元が宋から帰国した1227年(安貞1)に著した,開教伝道の宣言書ともいうべきもの。1巻。…

【仏教】より

… 鎌倉新仏教のうち,残る禅宗は宋からもたらされた。臨済禅は1191年(建久2)帰国した栄西が,曹洞禅は1227年(安貞1)道元が伝えた。本来の禅は来世の概念がなく,不立文字(ふりゆうもんじ)を旨とし,坐禅や公案(こうあん)を中心として自力による悟りを自己の心中に形成することを目的とした。…

【碧巌録】より

…破関はリズム,撃節は調子を合わせることである。流布本は,元代に再編された刊本によるが,道元が宋より伝えたという刊本以前の写本も存する。古くより,公案集の代表とみられ,宗門第一の書とよばれて,中国と日本の禅宗に大きく影響し,近代,ヨーロッパの言葉に訳されたものも,幾種かある。…

※「道元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

道元の関連キーワード越溪休覚覚心紹瑾大休正念太源宗真徹通義介別源円旨十三門派曹洞宗の大本山衛藤即応

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone

道元の関連情報