永徳寺(読み)えいとくじ

日本歴史地名大系 「永徳寺」の解説

永徳寺
えいとくじ

[現在地名]金ヶ崎町永栄

胆沢川北岸沿いにある。報恩山と号し曹洞宗本尊釈迦如来。開山は能登総持寺峨山韶碩二五哲の一人道叟道愛(出羽出身)で、開創は延文元年(一三五六)と伝える。道愛は正法しようぼう(現水沢市)二代月泉良印を補佐するために韶碩により派遣されたと伝えるものもあるが(「月泉良印禅師行状記」米沢瑞雲院蔵)、寺伝では当地に来たのは師の命ではなく、自分の意思であり、たまたま兄弟子良印が後を継いだ正法寺の活動を数年間援助し、のち独自の悟道で当寺を開いたという。

道愛は貞治二年(一三六三)、正法寺開山無底良韶の塔主に迎えられ(正法年譜住山記)、同年四月二七日、住持良印・塔主道愛が連署した塔頭領の檀那についての定置(正法寺文書)を作成している。


永徳寺
えいとくじ

[現在地名]串間市北方

初田はつだ川左岸のにある。富春山と号し、本尊木造薬師如来立像。江戸時代には高鍋たかなべ(現高鍋町)龍雲りようおん寺末(貞享三年高鍋藩寺社帳)。現在は臨済宗相国寺派。高鍋藩寺社帳によると保延元年(一一三五)創建、応永一八年(一四一一)島津忠朝の再興という。嘉吉元年(一四四一)三月一三日、将軍足利義教の異母弟大覚寺義昭(尊宥)は、謀反の罪により逃亡先の当寺で島津忠国に攻められ自害し、首は同月一七日京に届けられた(寛正四年七月七日「本田宗親覚書」旧記雑録、明応八年五月一六日「福島大明神社記」鈴木文書など)。義昭の墓の所在地については諸説あるが、南方金谷みなみかたかなや地区にある石塔とするのが有力である(→大覚寺義昭墓


永徳寺
えいとくじ

[現在地名]斐川町学頭 大井

村の北中央の丘陵地に位置する。臨済宗妙心寺派。亀鶴山と号し、本尊は十一面観音。創建年代は不明だが、東愚を開山とする。境内に観音堂と十王堂がある。「雲陽誌」によると万治三年(一六六〇)再建の棟札があり、寺内の観音堂を慈雲じうん閣という。聖徳太子作と伝えられる観音立像があり、毎年二月一七日に里人が群集し、太子の尊号を念修したという。松江藩主松平宗衍が出雲国中の祈願所とし、裏山に二階建の禅堂を建て、神応しんのう堂といった。


永徳寺
えいとくじ

[現在地名]神戸町横井

竜光山と号し、真宗高田派に属する。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると最澄によって創建されたと伝え、文明三年(一四七一)了慶のとき天台宗から浄土真宗に改宗したが、寛延元年(一七四八)現宗派となった。天正年間(一五七三―九二)のものと推定される美濃惣坊主衆支配之定(西円寺文書)に上の寺格として寺名がみえ、門徒寺六を支配していたことが知られる。親鸞聖人報恩講上納金五〇〇文を納める(年未詳「霜月御非時銭」性顕寺文書)


永徳寺
えいとくじ

[現在地名]大台町上三瀬

山号は万福山。浄土宗。本尊阿弥陀如来。縁起によれば、応永二一年(一四一四)九月、北畠満雅が挙兵の際、熊野・度会わたらいの諸士を集める目的で三瀬みせの地へ入り、祈願所として当寺を創建、慶徳山長福寺と称した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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