出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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浄信寺
じようしんじ
[現在地名]木之本町木之本
木之本集落の東端にある。長祈山と号し、時宗。本尊地蔵菩薩。
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
〔開創〕
寺蔵の伽藍開基記によれば、天武天皇の時、摂津難波浦に龍樹菩薩が彫刻した金色に光る地蔵菩薩が漂着、同地に金光寺を建て奉安していたという。文武天皇が白山参拝の途中、木之本において紫雲を見て、当地を霊地と感得し、天武天皇四年(六七五)金光寺を当地に移建、弘仁三年(八一二)空海が当寺に巡錫し、地蔵経を書写し、納入したと伝える。醍醐天皇は当寺で法会を修するとともに、長祈山浄信寺と改号したとされる。
〔中・近世〕
建武二年(一三三五)足利尊氏は毎年三月遣使して法会を修することにし、暦応元年(一三三八)修復のため田八〇〇石を寄進、以降歴代将軍も崇敬したという。本尊地蔵菩薩像は木之本地蔵として知られ、像高一六二・四センチの立像。像内納入の木札墨書銘によれば、地頭法橋禅信・杉野郷百姓・僧等の結縁により仁治三年(一二四二)八月に造像、同年一〇月彩色がなされた。
浄信寺
じようしんじ
[現在地名]阿蘇町内牧
内牧町の中央にあり、了覚山と号し、日蓮宗、本尊は三宝諸尊(釈迦如来・多宝如来・宗祖日蓮)と浄池院殿(加藤清正公)・浄信日教殿(加藤右馬允可重)。慶長九年(一六〇四)没した内牧城城代加藤右馬允可重の菩提を供養するため、子の正方が建立。開基は京都本圀寺の学頭本理院日近、建立の年は慶長九年説(逝去の年)・同一一年説(三年忌)・同一五年説(七年忌)・同一六年説(清正没年)がある。
浄信寺
じようしんじ
[現在地名]八代市本町一丁目
了覚山と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。慶長九年(一六〇四)阿蘇内牧(現阿蘇町)の城代加藤右馬允正方が、父可重の菩提所として内牧に京都本圀寺学頭の本理院日近を開山として創建、同一七年正方は八代城代となり麦島に移り、元和三年(一六一七)加藤清正の七回忌に寺を麦島に移した。元和八年八代に新城落成後現在地に再移転した。「国誌」に「寺領五十石寄付スト云ヘトモ、後来領主ノ障リヲ慮テ、当郡外牟田村ノ海浜ニ塘ヲ築テ墾田トシテ寄付之、然ルニ御当家御入国ノ比、住持遷化シテ看坊ノ処怠リテ寺領ノ証書ヲ出サス、終ニ退転ニ及フ、今其所ヲ浄信寺墾田ト称ス」とある。
浄信寺
じようしんじ
[現在地名]中村区岩塚町 郷中
羽衣山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉禄二年(一二二六)僧延命の開基になり当初天台宗、のちに僧専光坊長賢により改宗、天正年間(一五七三―九二)に横井村からこの地に移ったと伝える(中村区史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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