中国、明(みん)代の思想家。字(あざな)は伯安(はくあん)。浙江(せっこう)省余姚(よよう)の人。室を故郷陽明洞(ようめいどう)に築いたことから、陽明先生とよばれる。諡(おくりな)は文成(ぶんせい)。陽明学の祖。家庭は代々読書人で、父王華(1446―1522、字徳輝(とくき)、別号実庵(じつあん))は南京吏部尚書(ナンキンりぶしょうしょ)に至る。百死千難と称される守仁の経歴は、大概次の3期に分かたれる。
[杉山寛行 2016年2月17日]
朱子学から出発し婁諒(ろうりょう)(1422―1491)に師事するが、しだいに懐疑を生じ、病を発するに至る。会試にも失敗し、任侠(にんきょう)、騎馬、文辞、神仙、仏教に惑溺(わくでき)(陽明の五溺)する。28歳、進士(しんじ)に合格、官途につくが、道仏二教への専心は31歳まで続く。35歳、宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)(?―1510)の意に添わず、廷杖(ていじょう)四十を加えられたうえ、貴州竜場駅に流謫(るたく)された。ことばも通じない僻地(へきち)竜場で、37歳の守仁は「聖人の道は、吾(わ)が性に自足している。以前、理を事物に求めたのは誤りであった」と悟る(竜場の大悟)。外物に理を求める朱子学的格物(かくぶつ)論から脱し、心の働きの不正を去り(物を格(ただ)す)、良心を発揮する(知を致す)とする、新しい格物致知(ちち)の解釈を示す。
[杉山寛行 2016年2月17日]
39歳、劉瑾の失脚により、廬陵(ろりょう)県(江西省吉安(きつあん))の知県に着任。翌年、吏部験封清吏司(けんぽうせいりし)主事に改任され中央に戻る。以後、南京太僕寺(たいぼくじ)少卿(しょうけい)、南京鴻臚寺(こうろじ)卿を経て、45歳で都察院(とさついん)左僉都御史(させんとぎょし)に任じられ、江西、福建など諸省の農民反乱の鎮圧に実力を示す。この時期、初めて知行合一論を提唱し、門人も急激に増大した。陸象山(りくしょうざん)(九淵(きゅうえん))を顕彰し、『大学古本』を刊行したため、朱子学者の非難を招く。『伝習録』(現行上巻部分)も刊行された。その一方で、『朱子晩年定論』を編集することで、朱子(朱熹(しゅき))晩年の説が自説と異ならないことを示し、調和を図ろうとした。これがきっかけとなり、朱子学者羅欽順(らきんじゅん)との論争が始まる。48歳、寧王(ねいおう)宸濠(しんごう)(?―1521)の謀反に際して、義兵を起こし、宸濠を生擒(いけどり)にするという功績をあげた。しかし逆に叛意(はんい)ありとの讒言(ざんげん)を被り危機に陥った。論争はその渦中で開始されている。49歳、こうした危機のなか、致良知説を提唱し、朱子学を完全に脱して新たな学を展開する。
[杉山寛行 2016年2月17日]
50歳、世宗が即位すると、南京兵部尚書に任ぜられ、さらに新建伯に封ぜられた。王畿(おうき)、銭徳洪(せんとくこう)、南大吉(なんだいきつ)、董蘿石(とうらせき)などが入門する。『抜本塞(さい)源論』『尊経閣記』などを著し、晩年の円熟の境地を示す。57歳、都察院左都御史として、広西の思恩・田州の乱を平定した帰途、南安の舟中で没した。著作は『王文成公全書』38巻(1572)としてまとめられた。
[杉山寛行 2016年2月17日]
『島田虔次訳『中国文明選6 王陽明集』(1975・朝日新聞社)』▽『溝口雄三訳「伝習録」(荒木見悟編『世界の名著19 朱子・王陽明』所収・1978・中央公論社)』
中国,明代中期の思想家,政治家。字は伯安,号は陽明。ふつう王陽明と呼びならわされる。浙江省余姚(よよう)の人。父は南京吏部尚書王華。弘治12年(1499)の進士。明朝教学体系の中枢を占めた朱子学の権威に疑問の投げかけられはじめた思想・社会状況のなかで,王守仁は思想形成をなし,独自に良知心学を樹立して,強烈な朱子学批判を行った。ために思想界は朱子学の呪縛から解放されて,彼の出現以後の思想界は百花斉放の観を呈した。彼ははじめ呉与弼(ごよひつ)の弟子婁諒(ろうりよう)に朱子学を学んだ。しかし,朱子学に真実を見いだせなかった血気多感な王守仁は,任俠,騎射,文学,道教,仏教に耽溺して道を求め彷徨する(いわゆる五溺)。30歳代初期に朱子学に回帰するが,36歳のときに劉瑾のために貴州竜場に流謫され,この僻遠の地で生命を賭した思索のはてに独自の哲学的立場を確立する(竜場の大悟)。
朱子学では,自力による自己救済力(本来性)を基本的には認めるものの(性善説),現実の人間の多様性やそのもつ弱さ,背理可能性などを強く考慮して,本来,先天的に固有する自力能力だけでは自己救済できないとする。そこで現実存在(心)を超えて,それを基底から支え,天の命令として万人に普遍的に内在する〈性〉を措定して,この天に支えられた〈性〉に〈心〉が随順する〈性即理〉説が主張された。王守仁の朱子学体験の挫折は朱熹の原意を正確にくみとったとはいえないが,当時の朱子学に挫折して後に大悟した彼は,朱子学は人間の本来性を抑圧し,人間が固有する自己救済能力を理解していないと強く批判し,〈吾が性おのずから足る〉と主張した。また,朱子学の知行分割論に対しても,一瞬の今に実存する我(心)の態様を,知だ行だと分けることの無意味であることを主張せんとして〈知行合一〉説を唱えた。かくて朱子学者が激しく論難されたが,彼は程敏政の〈道一編〉に依倣して《朱子晩年定論》を編集,朱熹は実は晩年に全面的に自己批判したのだと発表した(47歳)。《伝習録》《大学古本》を刊行したのもこの年である。このこともあって王守仁の思想が広く世に知られるようになり,入門者も増えた。
朱子学者羅欽順との論争,副都御史として寧王宸濠の乱の平定活動をするなかで,彼は〈致良知〉説を発見し,ここに王守仁の哲学はいよいよ鮮明になった。そして父王華の喪に服するために帰郷した数年間,天下より雲集した俊秀と講学活動を行い,その中で良知心学を練成し,万物一体論,大同社会論などを開発した。彼の生涯で最も充実した日々であった。それもつかのま都察院左都御史として,広西の思恩・田州の反乱を討滅する命令をうけた。病を理由に固辞するも許されず,やむなく出陣して,首尾よく任務をとげた。しかし,南国の酷暑僻遠の地における激務が病を進行させた。彼は命令をまたずに帰郷の途につくが,江西南安で急死した。彼の著述は《王文成公全書》に収められているが,未収のものもある。彼の思想の流れをくむ学統を,その号から,陽明学という。諸反乱の鎮圧,郷約の実施などの治績にみられる政治家としての王守仁に対する評価は一定しているが,彼の良知心学に対する賛否は著しく時代思潮を反映している。
執筆者:吉田 公平
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1472~1528
明の学者,政治家。字は伯安,号は陽明。浙江(せっこう)省余姚(よよう)の人。進士に合格して官吏となったが,宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)に反対したため貴州省竜場に配流され,ここで心即理の原理を悟り,陽明学を成立させた。ついで江西,福建の流賊や寧王(ねいおう)朱宸濠(しゅしんごう)の反乱を鎮定,南京兵部尚書にすすみ新建伯に封じられた。広西の反乱を討ち,帰途没した。著書に『伝習録』などあり,全集は『王文成公全書』。
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…中国の陽明学,すなわち王学の学派。王守仁(陽明)の良知心学は,いっさいの教学の枠をこえるから,師説の受容とて各自の良知の判断にゆだねられる。だから,もともと一定不可変の内容を共有するものとしての〈学派〉とはなじまない。…
…郷約が最も盛んに行われたのは明の中期以後であり,当時解体化の傾向にあった郷村組織を再編成しようとする意味があったであろう。王守仁(陽明)が江西の南部で保甲法とともに施行した〈南贛(なんかん)郷約〉はとくに有名であるが,さらに明末になると呂氏の綱領に代わり,太祖の教育勅語ともいうべき〈六諭(りくゆ)〉の講解が中心となった。清初には明代の郷約がうけつがれたが,康熙帝は新たに〈聖諭16条〉を頒布し,雍正帝はこれに注釈を加えて〈聖諭広訓〉を頒布した。…
…中国,明代の思想家,王守仁(陽明)の実践論。強固な実践主体を確立するために具体的な実践の場で自己練磨すること。…
…朱熹の性即理に対する反措定として主張したのである。明代になって王守仁(陽明)が,朱子学の性即理説に疑念をいだいて懊悩したあげくに,独自の哲学的立場を大悟し,それを心即理説と表現して思想界に問題提起し,陸象山心学の復権をはかった。心即理説は,天命の性は,心を統御支配するのではなくして,心が天理を体認創造する可能性の根拠である。…
…前者は理想態としての至善の性であり,後者は悪への可能性もはらむ現実態としての性であるが,後者から前者へ復帰することが人の歩むべき道とされた。明の王守仁(陽明)は性善説に基づきながらも無善無悪説を唱え,固定的な善悪論の超克をめざした。【三浦 国雄】。…
…中国,明代の思想家,王守仁(陽明)の主張した実践論。王陽明は,人間を“現在”と理解する。…
…仁はもともと〈人を愛する〉ことであったが,やがて宋学では〈天地の生生〉の徳の人間における発現とされ,〈万物一体の仁〉が唱えられるにいたった。王守仁(陽明)はいう,井戸に落ちようとする赤ん坊に対する惻隠の情,哀鳴する鳥獣に対する忍びざるの心,草木の枯折に対する憐憫,瓦石の破壊に対する愛惜の情,すべて人間生れつきの〈一体の仁〉の発現である,瓦石ともともと一体なるものでなくて,どうしてあのような愛惜の情がおこりえようか。もちろん,その本意が人間社会における仁の実現の要求にあったことは疑いないが,しかもまた天地の生生の徳の実現たる仁の徳が,生物はもとより無生物にまで及ぶものと主張せられていることは,十分に今日的な意味を有すると思われるのである。…
…中国,明代の思想家,王守仁(陽明)の語録,書簡を編集したもの。1518年(正徳13)に薛侃(せつがん)が刊行したのが最初で,語録のみであった。…
…このため1519年(正徳14),朝廷が特使を派遣することに決すると,ついに兵を起こして南康,九江を陥れ,ついで安慶を囲んだ。このとき提督南贛(なんこう)汀漳軍務副都御史であった王守仁(陽明)は,変を聞いて南昌を攻め,朱宸濠はこれと戦って敗れたので,乱は42日で平定されたが,後日正徳帝は南京にまで親征し,その帰途朱宸濠は通州で殺された。この事件は,正徳帝が遊興にふけり政治が乱れた時の反映である。…
…狭義には中国,明代の人王守仁の学術思想をいう。広義には王守仁とその継承者の学術思想を包括していう。…
…人間が本来もっている判断能力をいう。王守仁(陽明)が良知心学を樹立してから,この良知が哲学概念としてひときわ重要になった。王陽明の場合,良知はもはや単なる知覚能力とか判断能力ではなく,人格的統一主体を意味する。…
※「王守仁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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