生物群集(読み)セイブツグンシュウ(英語表記)(biological)community

デジタル大辞泉 「生物群集」の意味・読み・例文・類語

せいぶつ‐ぐんしゅう〔‐グンシフ〕【生物群集】

ある場所に生息する全生物を一つの集団とみなしたもの。植物のみを対象とする場合は植物群落、動物のみの場合は動物群集ともいう。

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改訂新版 世界大百科事典 「生物群集」の意味・わかりやすい解説

生物群集 (せいぶつぐんしゅう)
(biological)community

森林でも草原でも河川でも海岸でもよい。いや,家の庭でも団地の周りでも公園でもがまんしよう。そこに生えている植物の種類はただ一つではあるまい。小さい下生えや雑草がいくつかは少なくとも存在するはずだ。その葉を食べ,花にみつを吸いにくる昆虫もいよう。鳥たちもときにはやってきて虫を食ったりしているかもしれない。土を少々掘り返してみれば,ミミズなどのうごめくすがたを見ることができるであろう。目を凝らして見れば,長さ1mm程度の小さい動物はたいてい見つかるはずである。

 どんな場所をとってみても,そこには数多くの種類の生物がいる。そしてこれらの生物は互いに,食う食われるの関係を中心に,さまざまに影響を及ぼしあって生活している。こうした多様な生物の集りと,その間に存在している多様な関係をひっくるめて,一般に群集と呼ぶ。

 人間についていう場合の群集という語は,ふつうただ単に集まっている人々を指し,密接な関係をもっているものには使わない傾向にある。祭り見物に集まっている人々は群集だが,会社でいつも顔を突き合わせている人々を群集とはいわない。互いに見ず知らずかあるいはそれに近いというのが暗黙の前提になっている。しかし,生物の場合における群集はそうではない。いや,少なくともそうとは限っていない。

 群集は,英語でいえばコミュニティcommunityである。1970年代から日本でも〈コミュニティの復権〉などのいい方が盛んになるが,この場合は利害などを共にする人々の団体ないしは生活共同体のことである。この語の基になったコミューンcommuneとは,親しく結びつけるということである。こういうわけで,生物に関しても一時期,共同体なる用語の使われたことがある。しかし,生物の群集は必ずしもそうではない。一つを動かすとその影響はかなりの範囲にまで多かれ少なかれ及んでいくが,その全体をつねに一つの共同体とみなすのにはいささか抵抗がある。

 ところで,同一種に属する個体の集りとその関係を取り上げて群集と呼ぶことはない。これは人間と対比するとき,一見奇妙に思えるかもしれないが,これは生物学における取決めである。むしろ生物における群集の概念は,その種の違いを人間における職業の違いになぞらえたところから始まったのである。

 一つの種に属する個体の集りのことを個体群populationと呼ぶ。ただし,同じ種に属しても地域的に分かれている場合はそれぞれを個体群と呼び,また操作的に扱う場合にもこの語を用いることがある。英語を見てもわかるように,この語は元来個体数(人口)に注目して扱うときに用いられていたものだが,現在では群集と対比して使われることが多い。遺伝学の分野では,ほぼ同じ内容のものを集団と呼んでいる。

 一方,ある地域にすむすべての生物とその地域の非生物環境とをひとまとめにし,主として物質やエネルギーの動きに注目して機能的にとらえたものを生態系ecosystemと呼ぶ。早わかり的にいえば,群集と非生物環境を合わせて力学系と考えたものである。

 なお,社会という語はかなり多義的である。動物の場合は,個体の行動を介して起こっている相互関係に重点を置いて見た場合の個体群を指すのに用いることが多く,植物の場合は,群集の中の植物(とくにいわゆる高等植物)だけの集団を指し,あるいはそれを一つの学派の見方で研究する場合にのみ用いることが多い。また日本の一部では,今西錦司のすみわけ原理に立つ場合に,群集のことを生物社会と呼んでいる。

動物は,他の生物の体や死骸,またはその一部を食って生活している。餌となる生物がなければ生命を維持していくことができない。この点は菌類も同様であり,さらには原生生物やモネラ(核をもたない細菌など)のほぼ半数にも当てはまる。

 植物や独立栄養の原生生物ないしモネラではどうだろうか。多くの種は光エネルギーと無機物をとり入れて体をつくるから,この面では他の生物を直接には必要としない。しかし,例えば花粉の媒介に昆虫を利用する植物はかなり多く,これらは虫なしには子孫がつくれない。また草や木を考えてみれば,自分の落とした葉や枝さらには個体が死んだあと,それらがもし腐らずにすべて残ったとすれば,地球上の限りある物質はその中に蓄積されたままになってしまって,草や木の摂取する栄養塩類は皆無になる。それだけではなく,地上は倒木,枯木,枯枝などで埋め尽くされ,草や木の生えるすきまもなくなる。草や木は,少なくともその死後に自分の体を分解し始末してくれる生物(モネラ,原生生物,菌類,動物)がいるからこそ,子孫が生存を続けていくことができるのだ。

 生物とはそもそも,他の生物の存在を前提にし,他の生物との間にさまざまな関係をもつことによって,生活を続けていくように成立してきたものなのである。この点で生物間の関係は,少なくとも時間をかなり長くとってみれば,結果として相互扶助的なものであるといってよい。すなわち群集は,全体として見れば,協同的ないし共生的なものなのである。

生物と生物との間に見られるもっとも基本的で具体的な関係として,まず食うものと食われるものの関係を取り上げよう。

 食うものと食われるものとの関係は個体と個体との間で起こり,かつ寄生の場合を別にすれば,時間的にとぎれとぎれに起こるものである。ライオンの1個体とシマウマの1個体との関係は,前者が後者を襲うときに始まり,食い終わった時点で終了する。次の関係は別の個体との間に起こるのであって,それもしばらく後の時刻のことである。しかしこうした関係は,個体は異なってもなん度も繰り返し起こるので,これを種と種との関係あるいは個体群と個体群との間の関係として,認識することができる。こうした具体的な生物と生物との間の食う食われるの関係を連ねてみると,そこに食物連鎖food chainができあがる。

 食物連鎖図のかかれた最初は,1913年のV.E.シェルフォードによるアメリカ合衆国イリノイ温帯草原についてのものといわれ,一方,日本での食物連鎖図の最初は,可児藤吉(1908-44)が1938年にかいた水生昆虫を中心とする渓流生物についてのものだろう。ちなみに芸術作品には,もっと古い時期から食物連鎖をあらわしたものがあって,例えば《ガリバー旅行記》の著者のスウィフトには〈ノミの体にゃ血を吸う小さいノミ,小さいノミにはその血を吸う細っかいノミ,こうして無限に続いてる〉という詩があるし,16世紀フランドルの画家大ブリューゲルの作《大きい魚は小さい魚を食う》は,つとに有名である。

 食物連鎖の関係を一つの突破口として群集の研究を進めようとしたのは,イギリスのC.S.エルトンであった。彼は〈動物を駆り立てている推進力は,正しい種類の食物をしかも十分に見いだすことなのだ〉として,食う食われるの関係にある個体どうしを比較すると,その間の相対的大きさが一定の範囲におさまってしまうこと,食物連鎖の段階が進むにつれて一般に個体数が減少する(数のピラミッド)関係のあることなどを指摘した。そして,ある種個体群が群集の中で何をしているかという,いわば人間の職業にもあたる生態的地位ecological nicheを明らかにし,その地位を占めていた種が他の種に置き変わる過程や,その地位を占める種たちの間の関係の変化を通じて,群集全体の変化の様相を,さらにはそれから群集自身のいわば構造を知る方向を提唱したのである(1927,30,33)。食物連鎖は概念的に,生きているものを食っていく生食連鎖と死んだものを食っていく腐食連鎖,さらに寄生連鎖の三つに分けられている。そして一般的にいえば,水域(とくに海洋の沖帯)では生食連鎖が卓越し,逆に陸上(とくに森林)では腐食連鎖の卓越することが認められている。

複数の個体がある生態的地位を求めているときに生じる直接,間接の相互作用は,どんなものであれ,ふつう競争competitionと呼ばれている。もう少し狭義の用法もあって,合計要求量が供給量を上回るときに限ったり,そのうえ少なくとも一方が害を受けるときに限定したり,また,双方の生存価の差が拡大する場合に限ったりすることもあるが,実際には限定条件においそれとあてはまらない場合が多い。日常用語としての競争は,上に記した狭義のものの第2の場合,つまり著しく狭い意味にとったものに近い。

 アリ類が餌場や巣をめぐって激しく争うのはよく知られている。例えばアブラムシアリマキ)のいる木の枝をトビイロシワアリトビイロケアリが集団で争い,昼間はケアリが,夜はシワアリが占拠するのは有名である。もう少し広い範囲で起こっている例でいえば,北アメリカ原産の淡水魚カダヤシが1916年に台湾から侵入してきて,60年代末には広く全国に広がり,各地で,とくに関東平野,大阪平野,沖縄島などでは,今やメダカをほとんど駆逐してしまったのである。さらに沖縄島南部では,熱帯アメリカからきたグッピーが増え,70年代末にはカダヤシにも取って代わってしまった。以上の例は,どちらかが相手を追い払ってしまう競争的排除が起こったものであって,すなわち共存の不可能な例である。

 だがこれとは異なって,種間で互いに融通をつけ合う場合も多い。付着藻類しか食わぬアユが多いと,カワムツオイカワ,ウグイといったコイ科の浮き魚は,藻類を多少とも食う状態から,落下ないし流下昆虫を専食するように食性を変える。また,カワヨシノボリやシマドジョウのような小型の底生魚は,大型のズナガニゴイやカマツカのいる所では,水生昆虫をそれに譲っておもに藻類を食う。このような現象を食いわけと呼ぶ。別の融通方法もあって,生息場所を変更する場合にはこれをすみわけと呼ぶ。そして,理屈の上からも予想されるように,食いわければすみわける必要はなく,すみわければ食いわける必要はない。北海道にすむマス類のオショロコマとアメマスとヤマメとは,ふつう上流から下流へと順次互いにすみわけ,この場合にはどの種も水面から水底近くまでの餌のすべてを食う。しかし共存する場所では,1種は底近くの,1種は水中の,1種は水面の餌をねらい,食いわけを行う。

 これらの例では,各種の生活要求自体は互いにかなり重複している。だがそれが実現される状態では,重なりを少なくし,あるいはなくしてしまう。直接,間接の干渉を避けて共存するのである。したがって生態的地位を理解する場合には,潜在的にあるいは可能性としてもっている生活要求自体の幅と,それの実現している幅とは一致しないのが普通であることに注意する必要がある。潜在的ないわば相互作用の生じる前の生態的地位を基本ニッチ,相互作用の結果生じる地位を実現ニッチと呼んで,区別する場合もある。そして,調べることの可能なのは実現ニッチのみであり,その変化の様相を通して群集の機能を知ることができるのである。

 何万年以上も互いに接触し,関係し合いながら生活してきた生物たちは,その相互関係の中から食いわけやすみわけを行う習性を獲得してきた。こうした調整能力をもちえなかった種は,現今まで永続できなかったはずである。また,ただ2種だけが同じ生息場所にいようとすると,互いの競争によって比較的短期間の間に一方が他方を駆逐してしまうにもかかわらず,例えばその双方を食う種が存在すると長く共存できる例も数多く知られている。この場合は,食うものを伴って進化してきたからこそ,それに食われるいくつかの種がともに生き残ってきたことになる。逆にいえば,こうした〈調整者〉を伴いえなかったものは,これまた過去の地質時代に姿を消したはずなのである。

 しかし,例えば南アメリカで進化してきた生物とアジアで進化してきた生物とのように,過去の時代に一度も顔を合わさず,関係をもたなかったものの間では,調整能力は当然ながら存在しない。そこで,移入された種には,大発生を起こしたり,先のカダヤシのように,それまで生存していた種を絶滅させたりするものも数多く現れてくる。また人間の手によって広い範囲を同じような環境にしたりすると,進化の過程でつくり上げられてきたすみわけや食いわけなどが意味をもたなくなり,競争的排除が起こってしまう実例もある。

 逆に比較的安定な環境では,すみわけや食いわけの結果がそのまま固定化した形となるかのごとき例も存在する。例えばオイカワの消化管の長さは,カワムツのいない関東地方ではカワムツに似て短いが,共存する関西地方ではかなり長くなっている。これを反映して,カワムツは昆虫食に著しくかたよった雑食,関東のオイカワは雑食,関西のオイカワは藻類食にかたよった雑食となっている。樹木の材を食うヒラアシキバチに寄生する3種のオナガバチの例になると,産卵管の長さは互いにほとんど重ならないぐらい違っていて,異なった深さの場所にいるキバチの幼虫をうまく分けて産卵する。どのようにしてこのような差が生じてきたかはまだ明らかになっていないが,近縁の種が共存する地域では,互いに著しく離れた形態を示す例はすでに多く見つかっており,こういう現象は一般に形質置換と呼ばれている。そして,いわゆる適応放散の現象は,こうした形質置換がなん度も繰り返し起こった結果だとみなされているのである。

群集を構成している以上の二つの関係,食う食われるの関係と競争的排除ないしすみわけ,食いわけの関係は,いわばその関係者の少なくとも一方にとっては,短い時間単位で考えるかぎり,相手が存在すると不利益の生じるものであった。だが生物の関係の中には,相手の存在が互いになんらかの利益になっている場合がある。よく知られた例を挙げよう。サンゴを形成する刺胞動物の中には,体内に褐虫藻類をもつものがある。藻のほうは安全なすみかを得ているし,動物のほうは藻の作用を借りて骨格をつくり上げ,その成長は著しく速くなっている。また,暖海沿岸の砂泥底にはテッポウエビ類とハゼ類がさまざまな組合せで,エビのつくった穴の中に共にすんでいて,ハゼが先に外敵を見つけて共に穴に隠れる。こういう例は広く協同cooperationと呼ばれ,とくに生理的な結びつきの大きいときは共生symbiosisの語の用いられることが多い。

 従来はこうした関係のうち,とくに相手の存在なしにはまったく生活を維持できない絶対的なものだけが注目されていたが,最近になって,相手の存在するほうが好つごうだというようないわば相対的なものにも,注意が払われてきている。例えば,アフリカのタンガニーカ湖にすむ魚食性のランプロローグス属の魚は,それぞれが独特の食いかたをする。ある種は,トゲウナギが石の間を泳いでエビや昆虫を食うあとについていって,隠れていた小魚がとび出すのを食う。別の種は大型の藻食魚の横についていって,その陰からいきなり襲う。さらに別の種は,小魚のいる岩の反対側から回り込んで上面からうかがい,体をたわめて倒立させたのち急降下する。だが,食われる小魚のほうもさるもので,敵をいち早く見つけてさまざまに逃げる手段をとる。したがって,1個体が単独で攻撃するときの成功率は低い。同種のものが複数でねらうと,それがやや高くなる。しかしもっとも成功率の高いのは,異なった種の個体が1尾の小魚を攻撃する場合である。小魚の側からすれば,違ったやりかたで襲ってくる両面の敵の目をかすめることは,確かに困難に相違ない。

 食いわけやすみわけを行う場合にせよ,従来の考えでは,同じあるいはよく似た生態的地位を占める他種というものは,存在しなければそれに越したことはないわけであった。したがって群集は,多様になり複雑になることが一般にはなかなか困難と考えられていた。しかし,種間に協同があり,同じ餌をねらう場合にもそれが各種にとって有利だとすると,こうした他種の存在は歓迎すべきことであって,群集はいっそう多様かつ複雑になりうることになる。

 食われる生物にとって食う生物の存在は,時間を短くとって考えれば,明白に悪である。だが,いくらか長い時間でみれば必ずしも悪とはいえない。草の多くは,ある程度哺乳類に食われるほうが生産速度は高くなる。プランクトン植物は,例えば富栄養化の進む以前の琵琶湖であれば,1週間ほどで水中の栄養塩類を全部使い果たしてしまい,それ以後は増殖できなくなる計算になる。頭打ちにならないのは,プランクトン植物を食ったプランクトン動物などが,栄養塩類を排出するからである。

 食う食われるの関係を永続させるためには,いわばほどほどにこの関係が実現されている必要がある。食うほうは餌を食い過ぎて,絶滅はおろか次に捕らえ難くなるほどになってはならない。食われるほうは当然ながら,食われる数を見越して子どもをつくらなければならない。どの程度の量が適当であるかは,その関係のありようの中で決まってきたのである。また,昆虫に花粉を媒介させ,鳥や哺乳類に種子を肥料つきで運搬させようとすれば,植物はこれらの動物の関心をひくために,みつや果実などを提供しなければならない。エネルギー量としてどの程度のものを提供するかもまた,群集の中で決まってくるものなのである。

 シロアリの類は一般に,枯れた幹,枝や落葉を食い,生きた植物体を食うことは少ない。そのようにして,シロアリと植物は共存してきたのである。ところが,他の大陸から由来した作物に対しては,その生きた状態のものを襲って大害を与えるという。その生理的機構はまだ明白でないが,これもまた,いっしょにすんで進化してきた生物間ではなんらかの調整機構が成立しているのに,過去に関係をもたなかったものの間では調整機構が存在しようのないことの一つの証拠となろう。そして,先にも述べたように,死後に自分の体を処分してしまうことは,植物が種として永続していくためには絶対に必要なことなのである。

群集のありようを明らかにするには,その諸関係を解析し,それを基礎にして全体を構築していく方法をとるのがふつうである。前に述べてきたのも,どちらかといえばこのやりかたにのっとったものであった。しかし,群集を全体として扱う方法もまた,その姿を示すだけでなく,解析に有効な場合がある。

 一つの群集の中で,生物の各種の個体数の大小関係には,なんらかの規則性があるのではないかとの考えが,なん人かの人によって提唱されている。元村勲の等比級数則は最も早く提示されたもので(1932),各種を個体数の大きいものから順位づけると,その順位xnと個体数nとの間には,log naxnb,すなわち等比級数的な関係のあることを認めたものである。内田俊郎は,すべての種に同じ大きさの生存に必要な最小区画があり,種間には優劣の順位が決まっていて,かつ1区画内では1個体だけが残存すると仮定すれば,この関係が成立することを導いた(1942)。そこで,最近ではニッチ先取りモデルniche pre-emption modelともいう。その後,等比級数則は,生物現象以外でも成立することが知られ,例えば選挙における候補者別得票数なども,これに合致することが明らかになった。なおサンプルの数が多くなると,後に提唱された負の二項分布則などのほうが,等比級数則よりも適合性の高いことが知られている。

 さて,少数の種からなる群集と多数の種からなる群集のどちらが複雑ないし多様かと問われれば,多くの人々は後者のほうが多様だと答えるだろう。だが多様性というものは,この種数の豊富さという事実と並んで,各個体数の均等度によっても変わってくる。ここに10種からなる二つの群集があったとして,一方は各種がすべて10個体から成り,他方は1種だけが91個体であとの9種は各1個体から成り立っているとすれば,前者のほうが多様だと感じるに違いない。先の等比級数則のaはこの均等度を示す指数でもあり,その値が小さくなるほど均等度は大きくなる。また負の二項分布則の場合などは,豊富さと均等度がそれぞれ別の指数として示されてくる。

 この二つを混ぜ合わせた総合的な多様度指数も,いくつか提案されている。ここでは情報理論を基礎におくものを二つ掲げておくにとどめよう。

 H=1/N×ln{N!/n1!・n2!……

  ns!}

 H′=-Σ{ni/N×ln(ni/N)}

ただし,niはサンプル中の第i種の個体数,N=Σni,lnは自然対数で,HあるいはH′の値が大きいほど多様性が高いことになる。

 この種数多様性はどのようにして決まるのであろうか。太平洋の熱帯付近の島々を例にとって,そこにすむ鳥の種数をまとめてみると,概して面積の大きい島には小さい島よりも多くの種がすみ,また同時に大陸から近い島には遠い島に比べて種数の多い傾向がみられる。マッカーサーR.H.MacArthur(1930-72)とE.O.ウィルソンは,移入定着率は島の大きさには関係せず,大陸に近ければ高くなり,消滅率は大陸からの距離には無関係に,小さい島ほど大きくなり,またこの二つは共に,その島にすでにすんでいる種の数に関係すると考えた。そしてこの二つの率が一致する点が実際の種数になるとしたのである。これを移入定着と消滅の種数平衡モデルと呼ぶ。

 環境条件が不適になると,種数が減り,かつ少数の種の個体数が増大する例はよく知られている。美しい川と汚濁の進んだ川で,生物種数を数えるだけでも,このことは明白である。そして適,不適という内容の中には,いくつかのものが含まれている。極端に暑いとか寒いとか,あるいは水がほとんどないといった条件が不適なのは明白だろう。また条件がときによって大きく変化することも不適さを増す。とくにこうした変化が不規則で,いわば予測できない条件下では,耐性をもった状態に移ることも困難になって,不適さはますます大きくなる。

 それと同時に,環境条件が地域的に細かく変化していること,環境の側の地域的多様性もまた,きわめて重要なことである。エルトンは1949年に,生息場所つまりハビタットhabitatというものは半ば規則的,半ば不規則的に散在しているものであり,生物の各種はそれにある程度対応しながら,自分の生活様式に従って生息し,その間に相互関係をもちあっているものだといった。当時は,そういう理解のうえで群集の研究を行うのは不可能だとする意見が強かったが,最近ではぼつぼつ成果が出はじめている。

 また,群集における種類数が多様であれば,群集は安定であるとの考えも提唱されたが,構成が不変かどうかで安定性を定義するなら,むしろ単純なほうが安定であるとの説が現在は有力である。ただし安定性を,外力が与えられたあとの回復力または外力が与えられても容易に動かないこととしてとらえれば,種数が多様であること,さらにいえば例えば食物連鎖などの諸関係が多様であることが,安定性の高いことと関連している点は疑いがあるまい。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「生物群集」の意味・わかりやすい解説

生物群集
せいぶつぐんしゅう
biological community
community

自然界のある場所をとると、そこにはかならずいろいろな種の生物が混じり合って生活している。生態学ではこれを一つの集団とみなして群集とよぶが、ヒトの群集と区別する際に生物群集の語を用いる。その場所に生息するあらゆる動植物を含めるのが原則であり、特定の生物群に着目して貝類群集、鳥類群集などと用いるのは便宜的な使用である。群集を植物部分と動物部分に分けるとき、前者を植物群落、後者を動物群集とよぶ。場所のとり方は基本的に任意であるが、景観としてまとまりのある場所、たとえば湖などを選ぶことが多い。陸上では一般に植物が景観を形成しており、植物群落を単位として群集を規定することが多く、「ブナ林の群集」「チガヤ草原の群集」などと表現される。

 群集を構成する各種生物個体は、生きるに必要な資源や繁殖などをめぐって密接な種内関係を有している一方で、種間でも深くかかわり合いながら生活している。たとえば、従属栄養生物たる動物は他種の動植物を食うことによって生きており、餌(えさ)となる他種の存在なしにはそれ自身の存在を考ええないものである。また、独立栄養生物とよばれ、一見他種とは無関係に生活しているかにみえる緑色植物も、光や土壌中の水や養分をめぐっての他種動植物との競争・協調のなかで生活しているのである。動物と植物間の関係としては、やや特殊ながら、虫媒花における受粉をめぐっての昆虫と植物との協調的な関係はよく知られている。これらのことは、群集が各種生物の単なる寄せ集めではなく、相互にかかわり合いながら生活している生物の地域集団であることを示している。

 群集の概念はこのような生物間の相互作用、もしくは諸関係を含むものであるがゆえに「生物の生活の科学」たる生態学のなかでもっとも重要な位置を占めている。なぜなら、現実の生物の生活はすべて群集の諸関係のなかで営まれているからである。

 これらの諸関係を群集全体として眺めるとき、そこには食物連鎖、生態ピラミッドなどの構造が現れてくる。また、諸関係の総決算が植物群落の遷移にみられるような動的な系を生み出すこともある。このため群集は独自の構造と発展形態を有する統一体としてとらえられることもあるが、群集が時系列的に不変の構成員と明確な境界をもたないことは明らかであり、このような群集観があくまで操作的なものにすぎないことは注意を要する。

[江崎保男]

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世界大百科事典(旧版)内の生物群集の言及

【海】より

…もちろん,この二つ以上の範疇に入るものや,中間的なものも多い。 海洋の生物は,例えば海水中では,サメ,クジラなどの大型の動物が,小型の魚類(イワシ,サンマ,イカなど)を食べ,小型魚類などは,橈脚類copepodaなどの動物プランクトンを食べ,動物プランクトンは植物プランクトンや,生物の死骸が分解する途中にできる生物残査(デトリタスdetritus)を食べるというように,高次消費者―二次消費者―一次消費者―生産者という食物連鎖関係で結び合った生物群集を構成している。海の基礎生産は,植物プランクトンと,海藻および顕花植物の海草の光合成によっている。…

【遷移】より

…ある一定の場所で,生物群集の構成が一つの方向に向かって移り変わっていく現象。遷移の最終段階は極相climaxで,極相に到達すると遷移は停止し,生物群集は安定する。…

※「生物群集」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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