真弓村
まゆみむら
[現在地名]大平町真弓
下高島村の西に位置し、西部を永野川が南流する。南は東水代村と接する。応永二九年(一四二二)六月二一日の黄梅院奉加銭替銭結解状(黄梅院文書)に「三月十一日七拾貫文 真弓郷」「四月廿七日三拾貫文 真弓郷」とある。暦仁元年(一二三八)一二月日の播磨国守護代真弓願西解状(広峯神社文書)の端裏書にみえる播磨国守護代真弓次郎入道は、当時の守護が小山朝政であったことから、当地真弓郷を本貫の地とした者と考えられている。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]北区真弓〈善福・八幡町〉
半国高山の西北麓に位置し、東は雲ヶ畑、北方は縁坂峠を経て中村、南は杉坂村と境を接する。清滝川支流の真弓川上流に開けた山村。
「京都府地誌」は村名を「昔坂上田村磨呂東夷征討ノトキ、斯地ニ産セル杜仲 ヲ以テ弓材ト」したところからの命名と記す。古代・中世を通じ小野山の一部で、小野郷村十ヵ村の一つ。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]明日香村大字真弓・地ノ窪
越村西南方に立地する。「万葉集」に「檀岡」「真弓岡」、「日本書紀」皇極天皇二年九月一九日の条に「檀弓岡」の名がみえ、「続日本紀」天平神護元年(七六五)一〇月一五日条には「癸酉、過檀山陵、詔陪従百官、悉令下馬、儀衛巻其旗幟、是日、到宇智郡」とみえ、「延喜式」に「真弓丘陵岡宮御宇天皇、在大和国高市郡」とあり、いずれも草壁皇子の墓所をさす。しかし真弓丘陵は現高取町大字森に治定されている。「万葉集」巻二に次の歌がある。
<資料は省略されています>
延久元年(一〇六九)一〇月の後三条天皇宣旨(東南院文書)に「万弓郷」、文治二年(一一八六)四月八日の醍醐寺文書目録(醍醐雑事記)に「高市郡真弓庄」、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「真弓庄十二丁七反高市郡 法花寺殿領」とある。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]常陸太田市真弓町
真弓山南面の丘陵上に位置する。西は亀作村。太田村より高貫村を経由して石名坂村(現日立市)に至る道筋にあたる。文禄四年(一五九五)七月一六日付の御蔵入目録(秋田県立図書館蔵)に「真弓」とあり、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「真弓村」とみえる。「新編常陸国誌」によると明和元年(一七六四)の戸数三九・人口一七〇、文化二年(一八〇五)には三四戸。天保一三年(一八四二)の検地で東隣の瀬谷村を編入し、真弓の集落を西真弓・元真弓と称した。田畠一一八町余、分米一千五一九石余であった。真弓山中より大理石が産出され、「加藤寛斎随筆」に「潔、白縞ノ二品アリ、白ノ中ニ紺色ノ模様ナルモノ縞寒水ト云、寒水石ト云ハ方言ニテ、瑪瑙石ナルベシ、此品国用ヲナスベキモノ」と記される。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]中之島村真弓
刈谷田川左岸、野口新田・野口村の上流に位置する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に弓下右馬助分として「まゆミ村」とみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に五〇石三斗とみえ、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)によれば毛付二二石七斗余・荒一〇〇石七斗余で、八割余が荒蕪地である。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]新地町真弓
谷地小屋村の西に位置し、西端の伊具郡(現宮城県)との境に五社壇(標高三八三メートル)がそびえる。現宮城県丸森町側では朝日に輝くので東光山、新地町側では鹿狼山に対して兎狐山とよぶ。山頂には白山・羽黒・羽山・山王・牛頭天王の五社が祀られ、羽山信仰の対象となっている。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多庄のうちとして「まよミ」とみえ、段銭一一貫五〇〇文とある。寛永七年(一六三〇)には大町備前本分の「弐拾三貫六百七拾文 新地之内まゆミ村牒一冊」が伊達成実に加増されている(「伊達政宗領知黒印状」伊達家文書)。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]生野町真弓
森垣村の南に位置し、市川が流れる。生野街道筋で、「但州湯嶋道中独案内」に「長き在なり、次に川あり、高水橋舟なし、南に大歳大明神の宮あるなり」と記される。真弓峠を越えると播磨国猪篠村(現神崎町)に通じる。播磨国神西郡に属する。播磨国慶長国絵図に「真弓」とみえ、別に真弓町と記すのは街道筋の町場を称するものであろう。正保郷帳では田高四七石余・畑高九〇石余。元文三年(一七三八)の生野銀山一揆では姫路藩の手勢が当村井筒屋などを旅宿として一揆鎮圧に努めた(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]山川町真弓
北関村の南東、飯江川の上流真弓川沿いにある。天正一一年(一五八三)頃と推定される年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)に「まゆミ」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録には記載がないが、同五年立花親成(宗茂)から小野久右衛門(統実)へ真弓村一一四石余などが宛行われている(「立花親成知行宛行状」柳河藩史五)。元和七年(一六二一)の郡村帳によれば玄蕃高一四五石余、小物成は山手米一石余・茶年貢米三斗・紙役米七斗余。旧高旧領取調帳では高一八五石余、幕末から明治初年の反別一六町九反余(郡郷)。
真弓村
まゆみむら
[現在地名]宇目町南田原 柳瀬
中岳村の南、中岳川支流真弓川の上流域に位置。集落の南方鞍部を越し藤河内村に至る道が通る。江戸中期頃に成立したと思われ、寛政三年(一七九一)の組々免村継郡付庄屋村横目名面帳(三重町立図書館蔵)に小野市組のうちに村名がみえるが、「田原村之内ニ加ル」とあり、同年田原村に統合されたようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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