租庸調・雑徭(読み)そようちょうぞうよう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「租庸調・雑徭」の意味・わかりやすい解説

租庸調・雑徭
そようちょうぞうよう

中国の唐代前期、および日本古代に行われた公課。

日本

租・庸・調・雑徭税目と、それらを統合した課役(かえき)の概念は、中国の唐の制度を7世紀後半に継受したもので、浄御原令(きよみはらりょう)を経て大宝(たいほう)律令により日本独自の租税制度として確立された。国郡里の地方行政組織と50戸1里制に基づく戸籍制度の確立による人民の領域的区分の完成と、それらを基礎とした国家運用の財政経費の財源確保のための租税制度の完成は、7世紀末から8世紀初頭の段階における日本古代国家の完成を示す。唐の租・庸・調・雑徭(ざつよう)は成年男子を負担者とした丁別(ていべつ)賦課の租税で課役と総称されたが、日本では原則として丁別賦課の調・庸(歳役(さいえき))・雑徭からなる課役から、田積(でんせき)賦課であった租(田租(でんそ))は除外されており、調・庸(歳役)・雑徭は賦役令に規定され、田租は田令に規定されていた(唐ではすべて賦役令(ふえきれい)に規定)。

[石上英一]

田租は、共同体成員が田の収穫の一部を初穂として首長に貢納する初物貢納儀礼が稲の収取体系へと転化し、律令制のもとで租税とされたものであり、輸租田(口分田(くぶんでん)、墾田位田、功田などの百姓や官人、貴族、個人に給される田や郡司職分田(ぐんじしきぶんでん))から徴され、郡の正倉(しょうそう)に蓄積された(正税(しょうぜい))。

 大宝令制以前は100代(しろ)に3束(ぞく)の率(1町租稲15束)で賦課された。1束(穀=籾(もみ)1斗、米=玄米5升。1升〈大升(だいしょう)〉は現在の約4合)は田1代(1代=5歩(ぶ)〈1歩=高麗尺(こまじゃく)6尺平方〉、500代=1町)の上田の場合の標準穫稲で、重量が10斤(きん)なので成斤(せいきん)と称した。

 大宝令制で1歩が高麗尺5尺平方となり1歩の面積が36分の25となり、升(ます)の容積も36分の25(減大升(げんだいしょう))、束の重量も36分の25(不成斤(ふせいきん))としたので、租を従前と同量にするために、25分の36倍して1段(たん)に2束2把(わ)の賦課(1町租稲22束)としたが、706年(慶雲3)にはふたたび成斤の束に単位を改めて1段に1束5把の賦課(1町租稲15束)とした。国内の各種の田の作付けを記録するために青苗簿(せいびょうぼ)を作成したが、さらに損田(作付けしたが災害により不作であった田)が1国内の作付けした田の10分の3以下(例損)であるか(不三得七法)、不堪佃田(ふかんでんでん)(耕作不能の荒廃田)が国内作付け予定面積の10分の1以下であるかを主税寮で監査するために租帳を作成させた。国ごとの租の収取量や蓄積の実態は正倉院文書中の天平(てんぴょう)期の正税帳により知られる。

[石上英一]

調

調は、後述の諸物産を中央政府に貢進する制度で、調(正調)、調の代納物としての調雑物、付加税としての調副物があり、正丁・次丁・中男(ちゅうなん)の輸貢量は4対2対1と定められた(副物は京・畿内(きない)および次丁・中男には付加されない)。717年(養老1)には正丁の副物と中男の調を廃止して、諸国で中男を役して調達する中男作物の制がつくられた。また京・畿内の調は、布が畿外の2分の1だけ課され、のちに銭納(調銭)も行われた。

 調は絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿(以上絹製品。綿には真綿以外の製品もある)・布(麻布)、雑物は鉄・鍬(くわ)・塩・海水産物、副物は主として手工業原料・手工芸品(染料、油脂、漆や簀(す)・樽(たる)など)であった。調と雑物は繊維製品、鉄など物品貨幣的性格をもつが、雑物のなかの海水産物は宮都で宮司が直接に消費する保存食品であった。調の訓はミツキ・ツキで、律令制以前の服属集団・共同体成員の支配集団・首長に対する服属儀礼の貢納物であった。海水産物等と同様の貢納物には贄(ニヘ)があり、律令租税制のもとでは調雑物と天皇への貢納物としての贄に分かれた(在地社会における首長・神への贄貢進儀礼は存在している)。調や贄の諸物産は多くの場合一丁一丁が個別に生産できるものではなく、共同体の規模で生産・調達された。調の収取予定量は人口と課口の集計帳簿の大帳(だいちょう)であらかじめ民部省に掌握されて国家財政の基礎とされ、貢調使が収取記録の調帳とともに調を大蔵省に貢進し主計寮の監査を受けた。

[石上英一]

庸は、正丁の歳役(年ごとに宮都に徴発される力役)10日の代納物で、布や米を収取した。庸は大蔵省に貢進され民部省が仕丁(しちょう)・衛士(えじ)等の食料や役民の雇直(こちょく)・食料に充当した。日本では元来、地方から中央政府に徴発されたツカヘノヨホロ(仕丁)等の資養物をチカラシロと称したが、それが唐制の歳役の代納物としての庸にあてられた。庸は京・畿内は免除されていた。平城宮など都城出土の木簡には調庸贄の付札が多数あり、正倉院宝物中の布帛(ふはく)には調庸の墨書銘が多数残っている。

[石上英一]

雑徭

雑徭は、正丁等を年60日以内地方で使役する力役。訓はクサグサノミユキ。ミユキは律令制前の大王・天皇またはそのミコトモチの御行(ミユキ)に伴い徴発された力役を唐の雑徭にあてたもの。このほかに在地の首長による力役徴発が存在した。租・調・庸の班田・戸籍を基礎とした収取は9世紀ころより変質し、10、11世紀には官物(かんもつ)・公事(くじ)といった中世的収取形態へ移行していった。

[石上英一]

中国

中国、唐前期の主要な公課。成丁(せいてい)を対象に定額の穀物(租)と布帛(ふはく)(庸調)を徴収し、原則として首都(長安・洛陽(らくよう))に運ばせて国家財政の支出(官俸・軍費・賞賜など)にあてる部分がその主体をなし、課役ともよばれた。雑徭(ざつよう)は地方州県が住民に割り当てた一定日数(年間40日、一説に50日)の役務徴発で、丁男・中男を対象とし、必要に応じて小男や老男、ときには婦女まで駆り出され、官衙(かんが)、城壁、道路、堤防などの建造修理や、官物の輸送・保管、あるいは城市の警備など比較的単純労働にあてられた。

 北魏(ほくぎ)の太和9年(485)に始まる均田法に対応する均賦制が発展して隋(ずい)・唐の租調役制となり、初唐に役(正役)が絹布に折納される庸が一般化して租庸調となった。その制度的完成を示す「開元賦役令(ふえきれい)」によってみると、徴収対象は白丁(平民)の丁男(21~59歳)に限られ、九品以上の官人や王公貴族はもとより、僧侶(そうりょ)・道士や身体障害者、旌表(せいひょう)者(孝義を表彰された者)や部曲(ぶきょく)・奴婢(ぬひ)などの賤民(せんみん)、官人など身分ある者の一定範囲内の親族は始めから除外されており、徴収対象(課口)でも、老親などの介護者(侍丁)・服喪(ふくも)者や兵士、色役従事者は実際の徴収を免除された(見不輸)。

 税額は毎丁、租が粟(あわ)2石(約120リットル)、調は絹(けん)・綾(りょう)・絁(し)という「きぬ」で2丈と綿(まわた)3両、非養蚕地では麻布2丈5尺と麻糸3斤、庸は役20日分(閏年(うるうどし)は22日)の代納で1日当り絹3尺または麻布3尺7寸5分の割で、計絹1匹2丈、麻布1端2丈5尺となり、庸調をあわせて一括徴収されるので、毎丁絹2匹(約54センチメートル×24メートル)あるいは麻布2端(約54センチメートル×30メートル)の負担である。庸調については地域別に特産品で代納することが許され、嶺南(れいなん)で銀にかえて納入された実物が西安(せいあん)南郊の何家村(かかそん)遺跡で発見された。また揚子江(ようすこう)流域以南では、8世紀に租をほとんど麻布にかえ租布として徴収した。なお水旱虫霜の災害にあった地方では、被害に応じて4割以上なら租、6割以上で租と調、7割を超えると租庸調全免が規定され、8世紀中葉になると毎郷一定数の貧窮戸の徴収免除が行われた。

 租庸調の徴収には、毎年末に戸主の提出する手実(申告書)に基づき里正らの手で州県の計帳がつくられ、毎戸の徴収額と県・州の合計額が首都の戸部度支に報告され、庸調は8月に、租は11月に徴収された。正丁均額賦課の前提となる均田制は部分的にしか実施しえず、8世紀には小農民の困窮化・流亡が目だち、貨幣経済の浸透もあって、建中元年(780)両税法の発布により租庸調は廃止された。

[池田 温]

『井上光貞他編『律令』(1976・岩波書店)』『鈴木俊著『均田、租庸調制度の研究』(1980・刀水書房)』『曽我部静雄著『均田法とその税役制度』(1953・講談社)』『西村元佑著『中国経済史研究――均田制度篇』(1968・東洋史研究会)』『堀敏一著『均田制の研究』(1975・岩波書店)』『日野開三郎著『唐代租調庸の研究Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1974、1975、1977・私家版)』

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