〈出〉は貸出し,〈挙〉は利付きの貸付け,〈出挙〉となると利貸の汎称。
中国では日本古代律令制下のごとき制度用語としては用いられていない。しかし日本の出挙の源流には,春時農民に穀物(食糧ないし種子)を貸し付け,秋の収穫時に5割(ときには10割)の利息をつけて返還させる中国における一般的慣行の存在があった。本来は農民の再生産を保証する機能を担うべきものであったが,州県の財政収入として重視されるにいたり,公廨(こうかい)(官庁)の麦粟を強制的に貸し付け,凶作の際は抵当物件を差し押さえたりする収奪の手段となった。寺院や有力地主等も古代中世を通じてこれに類する穀物貸付けをひろく行った。
執筆者:池田 温
出挙は大化前代から屯倉(みやけ)や国造領で行われていたが,制度的に整備されるのは7世紀末から8世紀初頭である。出挙には公的な性格をもつ公出挙(くすいこ)と民間における私出挙がある。令の規定では債務契約は官の処理を経ない自由契約によること,複利計算は許されず利息は10割を限度とすること,債務不履行の際において質物で返済できないときや質物契約のない場合は家財が差し押さえられること,それでも不足するときは労働によって弁済することなどが定められている。貸与物件によって稲粟出挙と銭財出挙に分けられるが主流は稲穀の出挙であった。
稲穀の公出挙は毎年春夏の2度に分けて穎稲(えいとう)(稲穂)で貸し出され,秋の収穫後に利息とともに回収される。貸付時期は地域により差があるが春は旧暦の2月中・下旬から3月前半,夏は4月下旬から5月にかけての一時期であったとみられる。春の出挙は種籾として稲が要求される時期,夏は田植えに欠かせない雇傭労働に対する出費がかさむ時期で,いずれも農業慣行と密接な関係をもっており,出挙本来の性格は共同体成員の再生産を保障するものであり,その起源は初穂貢納や種稲賜与と密接な関係があるとみられる。
利息は3割に軽減された時期もあるが5割が原則である。これは平均半年あまりの借稲期間について5割の利息を支払うもので,実質年利はきわめて高くなる。諸国の年間の諸経費はほとんど公出挙の利息収入に依存しており,毎年の出挙総額は年間の必要経費を基準に算出されたようである。出挙業務は国司の任務のなかでももっとも重要で長官が指導に当たることが多かったが末端の実務は郡司以下の地方役人や有力農民が担当したとみられる。貸付けは個人単位で行われ貸付量は地域や時期によっても異なるが,30束,36束,40束といった数束きざみまたは10束きざみで貸し付けていた国もあれば2束から200束にも及ぶ幅の貸付記録がみられる国もある。5割の利息計算のため偶数を原則とした。末端の貸付けについての具体的な史料は知られていなかったが,茨城県鹿の子C遺跡から延暦年間の状況を記録したものが漆紙文書として出土した。それには人名の下に3月と5月の2度に分けて10~40束の間で10束単位の貸付高が記され,各数字の上に確認の朱の圏点が付されている。このような貸付原簿をもとにして国別の出挙帳が作成され中央に報告された。出挙帳の実例は736年(天平8)の伊予国のものがある。
国郡別の出挙総額,未納損失額,利息収入等は天平期の正税帳や郡稲帳によって詳しく知ることができる。また借稲名義人がその年の返済時期までに死亡すると元利とも免除される規定であったので,死亡人と死亡月日,借稲量を記録した大税負死亡人帳も作成され,実例としては739年の備中国のものなどが残っている。稲穀出挙には大(正)税以外に郡稲,公用稲,駅起稲ほかの雑官稲の出挙があったが734年に一部を除いて正税にまとめられ,残る駅起稲なども739年に正税に混合され大規模に運用されることとなった。さらに745年には国の等級別に正税出挙の定数が定められ,ほかに公廨稲(くがいとう)という別枠の出挙稲が大国の40万束を最高にほぼ10万束単位で設定された。ここに至って公出挙制は完全に税制として機能することになる。これらの出挙稲の設定により国別の貸付高は急増し,目標額の利息を得るために強制的に貸し付けられる農民の負担は一段と増した。
民間において貴族,官人,富豪層,寺院などによって行われる私出挙も稲穀が中心であった。令で規定された利息限度は711年(和銅4)に5割に改められたがどの程度守られたかは疑問であり,相当高利の貸付けが行われていたとみられる。公出挙は貸付時期が限定されており食料不足などの緊急の需要には役に立たず,高利であっても身近な私出挙に頼る農民が多く,返済できずに私的労働力として長期間拘束されたり,一家が離散するような弊害が目だち,政府は公出挙収入を増すことも考慮して737年に稲穀私出挙を禁止した。しかし銭財の私出挙は禁止の対象外とされたため,銭財と称して稲穀を出挙する口実をあたえ,禁令にもかかわらず永く存続して,個人で一国の公出挙総額に相当する6万束もの貸付けをしていた郡司も現れ,律令国家の解体に連なる要因ともなった。
銭財出挙の方は銭の出挙が畿内を中心に行われた。8世紀の例では744年に紫香楽(しがらき)宮の造営費用を捻出するために司別に一千貫を出挙した例や,写経所における月借銭(げつしやくせん)の例などがよく知られる。9世紀には山城,摂津,河内で治水事業の財源に銭出挙を利用したこともあり,平安京の西市には出挙銭所も設置されていた。銭以外では酒,布が対象となった例もあるが,民間において郡司らが農民の調庸物を代納することにより生じる債務関係も一種の財物私出挙となったことも見のがせない。9~10世紀にかけて公出挙制も大きく変化する。まず班挙の基準が人から戸,さらに土地単位へと移行し,そのうえ本稲を貸し付けずに利息に相当する稲を徴集する方式がとられるようになる。すなわち田積単位に一定額の稲を徴集する田租と差のない地税となり,公出挙制は平安末期に姿を消すのである。
→正税
執筆者:舟尾 好正
中世では出挙といえば一般に米稲の出挙をさし,銭の出挙は挙銭(こせん)といった。出挙契約に際しては〈申請出挙米事〉の書き出しではじまる借用状(借状,借券,借書などといった)が作成される。一般に出挙米の場合,春(3月)の日付をもつ借用状が多く,秋(10月)に返済する旨明記されるのが普通である。この出挙米は利息が〈把〉という穎稲の計量単位で表示され,〈五把の利〉が標準である。これは返済時で5割の利息になる。公家法や幕府法の原則では,60日で元本の8分の1の利息,480日で元本と同額の利息とし,これを超過することは禁じられていた。出挙米は春に貸し付けられ,利息が〈把〉で示されることから,播種用のもみとして利用され,稲穂(穎稲)で返済されるべきものだという観念が反映しているとみられる。これは出挙の初源が原始社会における共同体首長の種稲賜与,共同体成員の初穂献納という農業慣行に由来することの中世的な表現といえよう。
出挙契約における債務不履行の場合の弁償には2形態あって,第1は田畠=不動産に関する権利(地主権であって,加地子徴収権が主なものである)を移譲することで弁償する場合である。この場合には債務者は質流文書(流文,放文,去文などという)を作成して,権利移譲を明示する。こうした流文の日付は冬(12月)から春(3月)にかけてのものが多い。多くの場合,債権者が地主となり債務者が小作人となって地主に加地子を納める。債権者が寺院・神社の場合,出挙米は寺物あるいは仏物・神物とみなされ,流地の公事納入義務が消去され(したがって債権者の収入になる),債務者が別途に納入することがある。第2は動産あるいは人身の所有権を移譲することで弁償するもので,借用状には債務者の動産あるいは債務者自身あるいは妻子縁者に対して債権者が行使する差押えを広く容認する文言(たとえば〈権門勢家・神社仏寺の御領内,市町路次ところを嫌わず,見合の高質を取らるべし〉)が明記される場合がしばしばみられる。人身が弁償となる場合には,債務者によって自身あるいは妻子縁者の身柄引渡しのために引文が作成されて,所従となった。
秋の年貢収納後に,この年貢をただちに貸し付けて春あるいは夏に回収するという出挙契約もかなり多く,出挙慣行は中世初頭から戦国時代まで,領主の百姓に対する収奪・支配の形態に構造的に組みこまれていた。
執筆者:小田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代に行われた稲粟(とうぞく)、銭、財物の利息付き貸付。一種の高利貸であった。国家が行うものを公出挙(くすいこ)、民間で行われるものを私出挙といった。養老令(ようろうりょう)の規定では、稲粟出挙の利息は年に10割、公出挙の場合は5割であり、財物出挙は480日で利息が10割を超えてはならぬとされている。出挙の起源については諸説があるが、本来は端境(はざかい)期に食料や種稲を貸し与える共同体の慣行から出たものと考えられる。しかし律令(りつりょう)国家の地方財政が、田租として徴収した稲を直接支出せず、いったん出挙してその利息を消費するという形で運営されたため、出挙が国家財政の運用に欠かせぬものとなり、財政の膨張に伴って租税化していった。諸国で行われた公出挙の収支は、毎年作成される正税帳(しょうぜいちょう)に記載され、中央政府に報告された。出挙は初め個人を対象にして行われたが、平安初期には戸に貸し付けられるようになり、ついで田地に割り当てられて、田租と並ぶ土地税に変わってゆく。私出挙は貴族、豪族、有力農民らの重要な収入源であったが、生活に困窮した農民の側も出挙を必要としたため、出挙を媒介とする農民の隷属化が進んだ。ことに利息を返済できない場合に、債権者のもとで労働する役身折酬(えきしんせっしゅう)の制度は、農民の隷属を強めることになった。私出挙の弊害を認めた政府は、奈良時代から平安時代にかけて何度か禁令を出したが効果はなかった。
[長山泰孝]
『薗田香融著『日本古代財政史の研究』(1981・塙書房)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
律令制下に広く行われた利息付き消費貸借。「出」は貸与,「挙」は回収の意。律令制成立以前から行われていた慣行を,中国にならって制度化したもの。稲・粟・酒・布・銭貨などのほか,財物全般が貸借の対象となった。国家が行う公的な出挙(公(く)出挙)と,私人が行う私的な契約による出挙(私出挙)がある。1年契約とすること,利息は10割を限度とし(稲・粟の公出挙は5割)複利計算をしないことなどのほか,債務不履行の場合の財物の差押えや労働による債務返還(役身折酬(えきしんせっしゅう))の規定もあった。狭義では稲の貸借をさすことが多く,雑税としての稲の出挙を公出挙,民間における稲の出挙を私出挙とよぶのが一般的である。なお,利息なしの消費貸借を借貸(しゃくたい)という。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…律令制下において諸国の正倉に収納されていた稲穀をさし,大税(たいぜい)ともいう。主として毎年の田租収入と正(大)税出挙(すいこ)の利息によって成り立っている。田租収入と出挙利息とのしめる割合は国や年度によっても異なるが,天平期においてはほぼ等しいか田租の方がやや多い程度とみられる。…
…このような定式化は,今日の新古典派経済学などにある程度の影響を及ぼしている。【堀内 昭義】
【歴史】
[日本]
(1)古代 古代では一般に利,息利と表すが,出挙(すいこ)や月借銭(げつしやくせん)によるものが知られる。令の規定では稲粟出挙は利息は私出挙が1倍,公出挙は半倍を超えることは許されず,期間は1年とし,1年目の利息がすでについている元本に翌年以降利息をつけることや複利計算は禁止されていた。…
※「出挙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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