日本大百科全書(ニッポニカ) 「秩父地向斜」の意味・わかりやすい解説
秩父地向斜
ちちぶちこうしゃ
Chichibu geosyncline
古生代シルル紀から中生代ジュラ紀末期(約4億4000万年~1億4300万年前)にかけて存在した、ほぼ日本列島の大きさの細長い堆積(たいせき)盆地。地向斜・造山運動論に基づいて考えられた堆積の場のこと。
日本列島はかつて中国大陸の縁にあったが、新生代新第三紀になって大陸から分離して南東方へ移動し、日本海が形成されたと推定されているので、秩父地向斜は当時の中国大陸縁に形成されたものである。すなわち、古生代石炭紀からペルム紀にかけて玄武岩質マグマが各所で上昇し、海底火山を形成した。火山体の上にはサンゴ礁石灰岩や紡錘虫石灰岩などが生じた。陸源の粗粒砕屑(さいせつ)物が到達しにくい海底には、放散虫チャート、細粒の泥岩(粘土岩)、火山体から運ばれる火山砕屑岩、凝灰岩などが堆積した。一方、陸源粗粒砕屑物の到達しやすい海底には、砂岩、泥岩、砂岩泥岩互層などが堆積した。中生代三畳紀に入ると火山活動はまれになり、放散虫チャートが堆積した。ジュラ紀に入ると泥岩、砂岩、砂岩泥岩互層などが堆積した。ジュラ紀後期には、地向斜内の各所で陸地の上昇がおこり、そこから周囲に海底地すべりがおこった。海底地すべりに際し、地層は褶曲(しゅうきょく)したり、ばらばらになって混合したりして、乱雑な堆積物(オリストストローム)を形成した。秩父地向斜の堆積物は中生代白亜紀初期の地層に不整合で覆われているので、秩父地向斜は白亜紀最初期までにはその大部分が陸化して山脈(原日本脊梁(せきりょう))を形成したと考えられる。
飛騨(ひだ)地方から能登(のと)半島に分布している片麻(へんま)岩類や先カンブリア時代の花崗(かこう)岩類などは、秩父地向斜の大陸側の陸地の名残(なごり)と推定される。一方、北上(きたかみ)山地の大船渡(おおふなと)から愛媛県西予(せいよ)市の黒瀬川を経て九州山地の五ヶ瀬(ごかせ)付近を連ねた幅10キロメートル前後の狭長な地帯、すなわち黒瀬川‐大船渡地帯には、古生代初期から先カンブリア時代の花崗岩類が点在している。この地帯は古生代、中生代を通じて浅海ないしは陸地であって、現在でいうと琉球(りゅうきゅう)列島のような地形をなしていたことを示している(黒瀬川‐大船渡列島とよばれている)。この地帯がかつて中国大陸から分離して秩父地向斜の大洋側の陸地ないしは高まりをなしたものと推定される。
秩父地向斜の地層は古生代末から三畳紀にかけての秋吉造山運動、白亜紀の佐川(さかわ)造山運動を被り褶曲、変成し、花崗岩の貫入を受け、さらに中央構造線などにみられる断層運動を被った。
秩父地向斜の古生層中に産する化石動物群は亜熱帯―熱帯の気候を示す。また中国の華北から朝鮮半島にかけての中朝卓状地における古地磁気の研究によれば、この地塊はジュラ紀後期から白亜紀最初期の間に、赤道付近の緯度からほぼ現在の緯度にプレート運動によって北上したものと推定されている。これらを考え合わせると、秩父地向斜は現在よりもかなり低緯度の地域で形成されたものと推定される。
秩父地向斜の堆積物は、現在では大洋底や海溝に堆積した地層が大陸斜面下底にはりついた付加堆積物と考えられている。チャートは大洋底に堆積したもの、玄武岩質火山岩類とその上にのる石灰岩は海山のもので、それらが海溝で陸源砕屑物と混ざり合ったものが、従来、秩父地向斜とよばれてきた堆積物の実体である。この考えが登場したことによって、秩父地向斜という用語は現在では使われなくなった。
[吉田鎮男・村田明広]