精選版 日本国語大辞典 「県」の意味・読み・例文・類語
あがた【県】
けん【県】
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倭(やまと)王権下の地方組織または区分。語義については,あがり田(大王の料地),わかち田(班給の地),さらに朝鮮語のカka(辺地)などから説明されるが定説はない。県の長を県主(あがたぬし)という。県,県神社,県主など関連名称の地域的分布は,大和・河内を中心に遠江・信濃・越前以西に多く残存し,筑紫の岡県主・伊覩(いと)県主の祖が賢木(さかき)に鏡,剣,瓊(たま)をかけて服属したという伝承(《日本書紀》仲哀8年条,《筑前国風土記》)は,県が本来祭祀的集団を基盤として倭王権に早期的に統属された地方単位であることを物語る。しかし県の行政的性格をめぐって次のような諸説がある。(1)大王の家産制的機関に直結した税物・労役の貢進団体とみなし,殿部(とのもり)や水部(もいとり)の供御に奉仕するトモを貢じた山背の葛野県主,大和の菟田(うだ)県主などをその典型とする説。《延喜式》祈年祭祝詞以下にみえる,大王の供御料地化した大和の六御県(むつのみあがた)(高市,葛木,十市,志貴,山辺,曾布)の各県もこの系列で理解される。(2)5,6世紀以後,各地の地域首長を再編した国造の支配下で,国の下級組織とされたのが県とする説。《隋書》東夷伝倭国条の〈軍尼(くに)一百二十人有り,猶中国の牧宰のごとし,八十戸に一伊尼翼(いなぎ)(翼は冀)を置く〉の記事によって〈いなぎ〉を県の首長とみ,7世紀初頭,国県の上下組織が成立したとする。(3)県の古訓に〈あがた〉と〈こおり〉の二つがある点から,県主を長とする〈あがた〉と稲置(いなぎ)を長とする〈こおり〉に分け,それを前後期に位置づけるか,畿内と畿外に対応させて理解する説。〈県邑に稲置をおく〉(《日本書紀》成務5年条),〈県(こおりの)稲置〉(大化元年8月条)の表現を重視し,〈あがた〉は大王家の直領地,〈こおり〉は国の下級組織とする。県制の成立と稲置の管する県の実態究明が今後の課題となろう。大化期,改新政策は東国と大和の6県でまず具体化されたが,律令制地方組織の成立にともない,県は郡名にうけつがれることが少なくなかった。
→稲置
執筆者:八木 充
中国の行政区画の単位。秦・漢時代以降の旧中国では,全国は1500を上下する県に区分され,その数によって王朝の領域の広狭が推定できる。官員が派遣されるのは県までであり,会館をはじめとした地縁結合の単位でもある。県は官(おかみ)に懸(か)けるの意で,秦の武公10年(前688)文献に初出し,新開地を直轄地とする場合使われたが,秦の統一(前221)で郡県制が施行されるとともにその位置を確定した。前漢時代には県とそれに準ずる区画が1587あり,後漢は1180に減少したが,唐代には1573に戻り,その後は1600を前後した(清朝以降,領域の拡大により今日では2000をこえる)。唐以後,重要度と人口数によって,赤,畿,望,緊,上,中,中下,下の等級がつけられ,宋以後は,劇,煩,僻,簡,盗,難治などの区分も加わり,官員任命に差等がつけられた。県の人口は唐では下県が1000戸以下だったが,元代江南では1万戸が中と下の境界線で,40km平方が普通である。長官は唐までは令,丞,尉。宋以後は知県,主簿,県尉と呼ぶ。
なお,日本の県については〈府県制〉の項を参照されたい。
執筆者:梅原 郁
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大和政権の地方制度。畿内の県は大和国の六御県(むつのみあがた)のように,大王(おおきみ)の日常生活を支える物資を供出し,内廷経済を支えた。その長が県主(あがたぬし)。一方,畿外の県については諸説があり,「古事記」「日本書紀」の所伝では祭祀とも深い関係をもち,宗教的性格が強いところから,国造制の成立以前におかれた大和王権の古い地方組織とみなす説,「隋書」倭国伝の軍尼(くに)―伊尼冀(いなぎ)から,稲置(いなぎ)を県の長とみなし,国―県という2段階の地方組織が7世紀にあったと考える説などがある。さらに県を「こおり」とよみ,評・郡の前身となる地方組織の存在(屯倉(みやけ)を核とする)を推定する説もあり,その実態には検討が必要である。
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中国の地方行政区画。春秋時代以降,諸侯が自国の集権化のため,新付の土地を県と名づけて直轄経営したのに始まる。秦の郡県制で郡に属し,地方行政単位として確立した。現在は省や自治区の下に属し,市よりも規模が小さい。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…中国,漢代から唐代にいたる時代に行われた地方末端の行政単位。漢代では地方を郡県に分けたが,その県の下には古来からの邑の伝統をもつ多くの自然集落が包含された。集落はいずれも城郭で囲まれ,その一つ一つが亭であり,10亭ちかく集まると,その最大のものが郷=都亭となり,他の亭を従えた。…
…中国の地方行政区画制度。厳密には秦から唐初まで郡県制が実施され,それ以後は州県制に代わるが,ここでは一つに取り扱う。郡県は周代の封建に対する語。…
…韃靼(だつたん)人(満州族を指す)の桎梏(しつこく)から国を守ることができなかったとすれば,シナに栄えた学問や哲学というものにいったい何の意味があったのか,と。
[政治機構――封建と郡県]
中国の文明はしばしばローマのそれにくらべられ,政治的文明と称せられる。たしかに両者は,多くの少数民族をも含む非常な広域,いわゆる〈天下〉が,中央政府より派遣する官吏によって統一的に統治せられた点で似ている。…
…やがて漢民族の発展とともに集落は平原に進出し郭は高くかつ巨大になってゆく。河北省易県で発掘された春秋時代の燕の下都は,東西8km,南北4kmに及ぶ長方形をなし,中央の運河を境とした東半分の内城には有力者,庶民の居住区,公共建造物,手工業区などの遺跡が存在するのに反し,西半分の外郭には遺跡はほとんどなく,戦乱などの際周囲の農村住民を収容する場所であったと考えられている。こうした外郭,内城は二重構造になっているとは限らず,両者が接続して大きな都市面積を構成しており,そうした伝統は20世紀まで部分的に継承されている。…
…都市国家が領土国家へと発展するにつれて,邑という語は都市,集落一般を意味するようになっていった。秦・漢時代の県,郷,聚,亭は,すべて邑が発展し,規模や性格によって分化したものということができる。後世には県を指して邑とよぶことが多く,特にその雅名としてよく使われる。…
※「県」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
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