突抜町(読み)つきぬけちよう

日本歴史地名大系 「突抜町」の解説

突抜町
つきぬけちよう

中京区衣棚通姉小路下ル

南北に通る衣棚ころものたな通を挟む両側町。町の北を姉小路あねやこうじ(旧姉小路)が通る。

平安京条坊では、左京三条三坊二保五町の中央部の地。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「衣ノ突抜丁」とあり、筆描図系ではその後、寛文末洛中洛外大図まで変化なく、元禄末期の洛中絵図では「衣棚突抜丁」となる。一方木版図系では、寛永一八年以前の平安城町並図では「つきぬけ」とあり、元禄九年(一六九六)京大絵図は「衣棚突抜」、宝暦一二年(一七六二)京町鑑」では「衣棚突抜丁」とあり、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成に「突抜丁」と記す。


突抜町
つきぬけちよう

上京区下立売御前通西入

東西に通る下立売しもたちうり通を挟む両側町。平安京の条坊では右京一条二坊二保三町の地で、官衙町の一つ「右兵衛町」の跡地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以降では勘解由小路西大宮大路かげゆこうじにしおおみやおおじ北西の地。

寛文後期の洛中洛外之絵図には「東ノ突抜」とあり、「西ノ突抜」(西隣の現行衛町の一部)に対する呼称である。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「突抜町」と記し、「此町西の辻下ル町東側阿弥陀寺と云真言宗、西側に華開院と云浄土宗の寺有」とある。この「突抜町」は「東ノ突抜」と「西ノ突抜」の総称で、紙屋川(現天神川)の東岸から、いまの突抜町までの下立売通に面する一帯をさした。


突抜町
つきぬけちよう

[現在地名]小浜今宮いまみや

塩浜小路しおはまこうじの東にほぼ東西に延びる両側町。東方町末は十字路となり、それより北側は安居やすい町・上市場かみいちば、南側は下市場となる。この三町と当町を市場四町と称した。慶長六年(一六〇一)京極高次沼地であった当地の埋立てを始め、同一二年町割をして市場が生れた。慶長一二年五月一六日付小浜東西并突抜町分家数間数覚書(斎藤家文書)に家数三〇、総間数八〇間とあり、京極氏町割の基準をうかがうことができる。寛永八年(一六三一)四月二三日付小浜突抜町中宛夫代銀割付状(同文書)によると家数三六、夫代銀合計三四四匁余で、京極氏に代わった酒井氏も江戸時代を通してしばしば地方調達金を命じている(文化九年一二月の「木綿屋仁左衛門調達金上納ニ付願書」同文書)


突抜町
つきぬけちよう

[現在地名]亀岡市突抜町

よこ町中ほどから東への東西の町並。東および北側堀端は家中屋敷。町並の長さ一一〇間半。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数三五。町場は古世こせ村分、築城に際し古世村民を移して形成。

町並の中ほどに寺屋敷と御薪蔵が立つ。


突抜町
つきぬけちよう

上京区今出川通七本松東入

千本釈迦せんぼんしやか(大報恩寺)の南にあり、東西に通る五辻いつつじ通と今出川いまでがわ通の間。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図をはじめ多くの近世絵図や宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」などに「釈迦突抜町」とあり近世を通じて用いられている。寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「地ごくの辻子」とみえ、元禄九年(一六九六)京大絵図にもみえる。「地ごく」は「地奥」の転訛で、本来は織物業ゆかりの地名という。


突抜町
つきぬけちよう

中京区釜座通三条上ル

南北に通る釜座かまんざ通を挟む両側町。北側を姉小路あねやこうじ(旧姉小路)が通る。

平安京の条坊では、左京三条三坊二保四町の地。藤原実頼の三条殿の旧地である。「大鏡」には「このおとゞは、小野宮実頼のおとゞの二郎なり。(中略)三条よりはきた、西洞院よりはひがしにすみたまひしかば、三条殿と申」と、三条殿の所在と、同邸が実頼から頼忠に相伝されたことがみえる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「釜座突抜町」とある。


突抜町
つきぬけちよう

上京区油小路通堀川ノ間中立売下ル

南北に通る油小路あぶらのこうじ(旧油小路)の西裏の通りを挟む両側町。

平安京の条坊では左京北辺二坊の南の地で、官衙町の「女官町」にあたる(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「甲斐守突抜丁」、元禄四年(一六九一)の京大絵図に「つきぬけ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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