日本歴史地名大系 「粟津橋本御厨」の解説
粟津橋本御厨
あわづはしもとのみくりや
粟津にあった天皇家領。文献上粟津御厨・橋本御厨としてそれぞれ単独でみえることがあるが、多くは粟津庄なども含め粟津橋本供御人と称される漁民の居住地として頻出する。同供御人は近江大津宮に都した「天智天皇御宇」に置かれたというが(正応五年一二月「蔵人所牒」山本修三氏所蔵文書)、当御厨は平安前期までに設定されていた
「山塊記」永暦元年(一一六〇)一二月一二日条に「粟津御厨」とみえ、新網代の追加が認められている。建保三年(一二一五)三月には勢多御厨とともに、寛弘期(一〇〇四―一二)朝廷に定められた「供御領海」の権利が追認されているが(同月一七日「官宣旨」山本修三氏所蔵文書)、同文書を偽文書とする説もある。なお同二年四月、山門・寺門の争乱のなか、「粟津御厨村等」が
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報