百科事典マイペディア 「宮沢喜一内閣」の意味・わかりやすい解説
宮沢喜一内閣【みやざわきいちないかく】
→関連項目小泉純一郎
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(1991.11.5~1993.8.9 平成3~5)
自由民主党(自民党)の総裁選で渡辺美智雄(1923―1995)、三塚博(みつづかひろし)(1927―2004)を破って、宮沢喜一が首班となって、1991年(平成3)11月に発足した内閣。海部(かいふ)俊樹政権から引き継いだPKO協力法案を、1992年6月ようやく成立させ、9月から自衛隊員などを順次カンボジアに派遣した。懸案の衆議院定数是正「9増10減」も同年12月に成立。しかし、1992年1月には共和事件で、阿部文男(1922―2006)元北海道沖縄開発庁長官が逮捕され、8月には金丸信(かねまるしん)(1914―1996)元副総裁の東京佐川急便不正献金問題が明るみに出るなど、終始スキャンダルに悩まされた。バブル後の不況からも脱することができず、「顔が見えない」などとその指導力不足が終始指摘された。
1992年12月の臨時国会終了後に内閣を改造。選挙制度を含む抜本的な政治改革の実現を内閣の最大の課題に掲げた。しかし、自民党の強い反対論にあって党議決定した単純小選挙区制より妥協した案をまとめることができなかった。1993年6月18日の衆議院本会議で野党提出の内閣不信任決議案に自民党内の羽田(はた)派などが賛成して可決され、衆院を解散したが、羽田派の離党などがあって、衆院選挙で過半数を確保できず退陣した。
[橋本五郎]
『弘中喜通著『宮沢政権・六四四日』(1998・行研)』
自民党の宮沢喜一を首班とする内閣(1991.11.5~93.8.9)。1991年(平成3)海部内閣のあとをうけて成立。自民党総裁選で2位の渡辺美智雄を副総理・外相,竹下派の羽田孜(つとむ)を蔵相にすえ実務型内閣といわれた。政治改革・国際貢献・生活大国を目標にすえ,国連PKO協力法,コメ市場開放などの懸案に対処。PKO法案は92年6月に可決,9月自衛隊をカンボジアに派遣した。しかし国内では佐川急便事件で政治不信が高まり,政治改革とからんで,93年6月社会・公明・民社3党の不信任案が可決され,衆議院解散を決定。自民党は,離党した武村正義が新党さきがけ,羽田孜が新生党を結成して分裂。7月18日の総選挙で自民党は過半数を大きく割りこみ同内閣は退陣,翌月日本新党の細川連立内閣にかわった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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