日本甲冑(かっちゅう)の一様式。騎射戦用の甲冑として発達した大鎧(おおよろい)に対し、徒立(かちだち)の打物(うちもの)戦用に考案された軽便な甲冑で、平安中・後期の成立と考えられる。おもに中世に用いられたが、初期にはもっぱら徒立の下卒に着用され、あるいは上級武士が軽快に出(い)で立つときに装束の下に着籠(きご)められた。構成は、立挙(たてあげ)前二段・後三段、長側(ながかわ)(衡胴(かぶきどう))は四段で、体を囲むように丸くつくり、着用の際に体を入れる引合せは右側に設ける。引合せは後胴を上にして打ち重ねるのが特徴で、草摺(くさずり)は歩行時の足さばきを考慮して八間に割り、五段下がりを普通とする。肩上(わたがみ)は長く柔軟な蔓綿噛(つるわたがみ)である。原則として兜(かぶと)と袖(そで)は具さず、袖のかわりに杏葉(ぎょうよう)という独特の形をした掌(てのひら)大の小板を肩上につけて肩先の防護とした。ただし、この様式は古く腹巻と称した。中世の記録、軍記物語の記述および絵巻物の描写の示すところである。のちに、おそらく、中世末期から近世初頭へかけての甲冑の変革期に、名称に混乱がおこり、胴丸とよばれていた背面を引合せとするいっそう軽便な甲冑と、名称が交替したものと考えられる。
南北朝時代以降、騎射戦が衰退して集団的な徒立の打物戦が盛んになるに伴い、重厚な大鎧はしだいに廃れて威儀の装具と化し、かわって徒立戦に適応する胴丸の機能が認識され、上級武士も好んで用いるようになり、兜と袖が具されて大鎧と同様の構成を示した。盛上本小札(もりあげほんこざね)の使用と相まって製作は向上し、外容もまた美麗となって品格を添え、紫韋(がわ)、黒韋、燻(ふすべ)韋、肩白(かたじろ)、肩取(かたどり)、腰取(こしどり)、色々威(いろいろおどし)など当時の好尚を反映する威毛(おどしげ)が行われた。兜は軽快な筋(すじ)兜が流行したが、鍍金(ときん)の飾り金物で装飾し、三鍬形(みつくわがた)を打った総覆輪筋兜はとくに賞用された。袖は大袖のほか打物戦に便利な広袖も添えられ、杏葉は胸前に垂下して高紐(たかひも)を覆い胸脇を防護した。一方、戦乱の激化、拡大によって増大した需要にこたえるため、製作の簡略化や迅速化が要求されて、伊予札(いよざね)を用いることが行われ、また韋包みや布帛(ふはく)包みの包胴(つつみどう)がつくられ、さらに室町末期には最上(もがみ)胴丸、金(かな)胴丸とよばれる板札素懸威(いたざねすがけおどし)の胴丸が現れた。
初期には粗製品が多かったためか遺物は少なく、わずかに愛媛県大山祇(おおやまづみ)神社に鎌倉時代の作と推定される紫韋威の一領をみるにすぎない。南北朝時代以降は、奈良春日(かすが)大社、大山祇神社をはじめ各地の社寺に優品が伝存し、着装のようすは『平治(へいじ)物語絵詞(えことば)』『蒙古(もうこ)襲来絵詞』『十二類合戦絵詞』および「細川澄元画像」「小笠原朝経(おがさわらともつね)画像」などに描かれている。胴丸は、室町末期から近世初頭の甲冑変革期に衰退したが、優れた機能と合理的な構造は当世具足に踏襲されて、その基本となり、近世の甲冑に大きな影響を及ぼした。
[山岸素夫]
中世の甲(よろい)の一種。胴の前後を覆って,右脇で深く引き合わせ,裾に8枚の草摺(くさずり)を付属する。札(さね)とよぶ牛の撓革(いためがわ)または鉄の小片を横につらねてつづり合わせ,さらに縦に胴まわりを衡胴(かぶきどう)といって4段,立挙(たてあげ)といって正面上部の胸板につづく2段と背面上部の押付(おしつけ)につづく3段,草摺を5段,それぞれ革緒や糸の組緒で札を1枚ずつ細かに威(おど)しつけるのを常とする。草摺を8枚に分けているのは歩行しやすいためであり,13世紀末ころまでは,もっぱら歩兵用として兵卒の間に用いられた。したがって付属具としては,肩に杏葉(ぎようよう)といって木の葉形の鉄板を革包みとして覆輪をかけた防御具をつけるだけで,冑(かぶと)も必要に応じて大鎧(おおよろい)のものを利用するにすぎなかった。胴丸の名称は,文献では《源平盛衰記》や日蓮の《種々御振舞御書》などから見えはじめるが,それ以前にこの種の形式の甲が存在したことは《伴大納言絵詞》をはじめとする絵画に認められ,愛媛県の大山祇(おおやまづみ)神社には13世紀にさかのぼる胴丸の遺品を伝えている。
14世紀になってから騎兵に不都合な山岳戦や太刀や薙刀(なぎなた)などによる打物の合戦が盛んに行われるようになると,武将たちも重量過大の大鎧よりは,軽快な胴丸を好んで着用するようになった。そして三物(みつもの)といって胴に袖と冑を添えるのが普通になり,肩の覆いとした杏葉は前方に下がって胸板の左右の付物になった。15世紀ころからあいつぐ戦乱によって需要が増加したため,下層の武士の間では,古物を作り直した仕返(しがえし)の胴丸や,粗雑な伊予札(いよざね)などとよぶ小札の上を全体に革や布帛の類で包んで菱綴(ひしとじ)とした革包,綾包(あやつつみ)などという胴丸が用いられるようになった。威(おどし)も札1枚ごとに細かくせずに,数枚とばして点々とあらくかがる素懸(すがけ)という手法の発生を見るようになった。しかも15世紀末から歩兵中心となり,打物より鑓(やり)が広く普及するに及んで,従来のいわゆる札仕立(さねじたて)の胴丸では,鑓の鋭い衝撃には耐えられなくなった。そのため鉄板による帯状の一文字の板札(いたざね)を素懸に威して用いることになり,柔軟性を欠いた不便を補うため,最上(もがみ)胴丸が生じた。これは衡胴の両脇の4ヵ所に蝶番(ちようつがい)をつけて開閉装置とした様式で,この種の胴丸をひろく具足(ぐそく)ともいった。しかし,射戦に対応して製作された提灯式の畳み甲としての伸縮ある胴丸では鑓や新来の鉄砲に抵抗できないので,衡胴を中心に大型鉄板を矧(は)ぎ合わせ,前後を蝶番留めとした金胴(かなどう)に改造された。やがてこれが当世具足とよばれ,16世紀末には,旧制の胴丸は全く影をひそめるにいたった。
→甲冑(かっちゅう)
執筆者:鈴木 敬三
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…こうした大鎧の優品として伝存するものに,東京都御岳神社の畠山重忠寄進と伝える赤糸威鎧,広島県厳島神社の伝源頼朝奉納小桜威鎧,愛媛県大山祇神社の伝河野通信奉納紺糸威鎧などがある。
[胴丸,腹巻,腹当]
平安時代に形成された鎧は騎乗用に整えられ,大型化しまた華麗な装飾が施されて武将の武威を表したが,徒歩の従卒用には軽快な胴丸が作り出された。脇楯を用いず胴を右脇で引き合わせ,草摺は歩行しやすいように八間と細かく分け,肩に杏葉を当てて防御した。…
…これが一般に普及して,具足といえば当世様式をさすのが常となった。15世紀から16世紀のはじめにかけて,もっぱら具足とよばれたのは胴丸(どうまる)である。当時の胴丸は胴に蝶番(ちようつがい)を入れたりして当世化しているが,なお中世のなごりをとどめて伸縮のよい畳み胴であった。…
…ともに大鎧に対してなお腹巻の名を用いていたが,厳密に区別するときは,前者を腹当(はらあて)という。後者は鎌倉時代の末ころから高級の武士の間に盛んに愛用されるにいたって腹巻の名を独占し,従来のそれは胴丸とよばれるようになった。かくて鎌倉時代の末以来,腹巻は引合せを背後中央に設け,草摺を七つに分割した様式に限られることになった。…
※「胴丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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