戦闘の際の防御具のひとつ。大鎧の俗称。また大鎧,胴丸,腹巻や当世具足(とうせいぐそく)などをふくめた総称でもある。広義の鎧(甲)の発達史については〈甲冑〉の項にゆずり,ここでは大鎧について述べる。
大鎧は着長(きせなが),式正鎧(しきしようのよろい)ともいう。もっぱら武将が着用した晴れの第一武装で,その威容は整った特色を示している。大鎧の起源は上古奈良時代に行われた挂甲(けいこう)をもとにするもので,平安時代前期に武士が興るとともに発達した騎馬での射戦に適応するよう,実用と意匠の両面において日本独特の発展をとげた。大鎧の形状は鉄薄板金や革を長方形に切断した小札(こざね)のはしを革で重ね,横に並列してからんだ小札板を,韋(なめしがわ)あるいは組糸で1段1段上下につづりあわせて形成する。立挙(たてあげ)が前2段,後ろは押付板(おつつけのいた),逆(さか)板,三の板の3段とし,衡胴(かぶきどう)(長側(ながかわ))すなわち胴回りは4段にして正面,射向(いむけ)(左脇),背面とつらなり,右脇の引合せの闕(あき)に別に壺板(つぼいた)に蝙蝠付(こうもりづけ)をもって草摺(くさずり)を垂れた脇楯(わいだて)をあてる。胴の正面には弦走韋(つるばしりのかわ)を張る。草摺は正面,射向(左脇),馬手(めて)(右脇),引敷(ひきしき)の4間にわかれ,ふつう小札板(垂れ)5段(前後を4段にしたものもある)を下げて裾(すそ)板(菱縫(ひしぬい)板)に畦目(うなめ)と菱縫を施す。背面の押付板から両肩にわたる綿嚙(わたがみ)にはくびの部分を守る障子(しようじ)板を立て,さらに綿嚙の手先の左右の胸板と引き合わせる高紐のあきを防ぐための鳩尾(きゆうび)板と栴檀(せんだん)板を垂らす。背面の逆板の中央には総角(あげまき)つきの大座の鐶(かん)を打ち,両肩に冠(かんむり)板のある5条ないし7条下りの大袖(おおそで)をつける。
大鎧には兜(かぶと)が付属し,前代の衝角付冑(しようかくつきかぶと)にくらべて梯形鉄板の矧合せ留め(はぎあわせどめ)の鋲頭(びようがしら)がいかめしくなったところから星兜(ほしかぶと)の称がある。鉢は5枚ないし10枚以上の台形板金を矧ぎ合わせた急勾配の円形で,頂辺にまるく孔をあけ,縁に葵葉(あおいば)形の座と玉縁(たまべり)をつけ八幡座(はちまんざ)とする。鉢の左右後には四方に響孔(ひびきあな)をあけ,古くは忍緒(しめお)を通し,真向腰巻の下端に花先形染韋包(はなさきがたそめかわづつみ)の眉庇(まびさし)を打ちつけ,鉢の前後ないし左右にも金・銀鍍金の板金を伏せ,鎬垂(しのだれ)を打って荘厳とし,これを二方白(にほうじろ),四方白と称している。𩊱(しころ)は小札板5段を威(おど)し下げ,4段を吹返しとして,絵韋(えかわ)をもって包み,さらに眉庇に鍬形(くわがた)台を鋲留めし,鍍金の鍬形をさし,真っ向に獅子,竜を飾ったものもある。
なお,草摺や袖,あるいは𩊱の菱縫板を飾る裾金物,眉庇,栴檀の冠板,吹返しに打った据文金物,境粧(けしよう)板の八双金物なども大鎧のいちじるしい装飾である。胸板,脇板,障子板,脇楯の壺板,兜の眉庇,袖の冠板,栴檀の冠板,鳩尾板などのように鉄板を地として,染韋で包み,ふつう紅五星韋(べにのいつつぼしがわ)で小縁をとり,色糸で伏組みを施した部分を総称して金具回りという。また綿嚙,蝙蝠付,弦走,兜の吹返しなど,小札地を染韋で張り,または革を心に染韋で包んだ部分を革所と総称している。また大鎧には兜,袖を具足するほかに喉輪(のどわ),籠手(こて),臑当(すねあて)(鎌倉末期以後は大立挙臑当を使用した)などの小具足を付属し,《伴大納言絵詞》《平治物語絵巻》《蒙古襲来絵詞》などに描かれている。籠手は片籠手と称し,弓手(ゆんで)のみを普通とする。春日神社の義経籠手は鎌倉時代の唯一の完存品であり,華麗な遺品として名高い。
大鎧の遺品についてその推移をみると,大山祇(おおやまづみ)神社の沢瀉威(おもだかおどし)鎧,猿投(さなげ)神社の樫鳥(かしどり)鎧は現存するもののうちでは最も古く,平安中期を下らぬものと推定され,形態や金具回りの曲線や意匠などに優雅な趣が見られる。これに比べて厳島神社の小桜韋威鎧,御岳神社の赤糸威鎧,大山祇神社の紺糸威鎧などのように,源平両氏が覇を争った時代のものは自然と豪壮雄大な風をあらわし,古記にいう〈大荒目の鎧〉の名に負うものである。さらに鎌倉時代になると,武家政治の確立を表象するかのように形姿は端正壮麗で,手法は堅緻なものになった。厳島神社の浅黄綾威鎧,御嶽神社の紫裾濃(むらさきすそご)威鎧,春日神社の紅糸威梅枝金物鎧などはその代表的な遺品である。鎌倉末期から南北朝時代にわたって,大鎧は軍陣の用をはなれ武将の第一装として威儀化し,装飾に重きをおくものも生じた。春日神社の竹に雀,虎の金物を打つ赤糸威鎧と,櫛引(くしびき)八幡宮の菊籬(きくまがき)の金物を打った赤糸威鎧は,装飾金物の豪華壮麗をきわめた双璧として著名である。
南北朝時代以後,戦乱あいついだ時代になると重厚な大鎧は激戦に適せず,軽便簡易な胴丸,腹巻がこれに代わって武将の間に用いられたため,しだいにすたれ,わずかに武将の礼装として残存した観がある。この時代の遺品として鹿児島神宮の紺糸威鎧,鞍馬大惣仲間に伝わる白糸威褄取(つまどり)鎧,出雲大社の赤糸威肩白鎧があり,厳島神社の黒韋威肩赤鎧は1542年(天文11)大内義隆が奉納したもので,作者春田光信の銘があり,末期の鎧として著名である。江戸時代末期に故実の研究が一般的となり,甲冑についても復古の風がおこり,多くは源平の昔をしのんで大鎧の制を復原し,あるいは源平相伝の重宝八領の鎧を想像模作する傾向を生じたが,帰するところ時代様式を写しえず,実をうしなった装飾品にすぎない。
執筆者:尾崎 元春
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武具の一つ。甲・介とも書く。おもに戦陣において、敵の放つ矢や刀・長刀などの攻撃から身体各部を掩護(えんご)するために着用したもので、胴甲(どうこう)を中心とする諸具足(しょぐそく)の名称であった。頭にかぶる兜(かぶと)とあわせて甲冑(かっちゅう)という。平安後期、武士階級の勃興(ぼっこう)とともに、10世紀に日本の代表的な鎧として完成をみた大鎧(おおよろい)は、騎射戦に対する甲冑として上級武士の間に盛行をみたが、南北朝の争乱を経て、白兵集団戦が戦闘の主体となると、馬側(ばそく)の下卒(かそつ)たちの武具であった軽装の胴丸(どうまる)や腹巻(はらまき)が武将の間にも用いられるようになった。16世紀の中ごろ西洋甲冑の影響を受けて、当世具足(とうせいぐそく)が用いられるようになり、大鎧は儀礼的な装具と化し、安土(あづち)桃山時代以降一時廃絶状態に陥った。
[渡邉一郎]
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…川沿いに水田が広がるほかは山地が多く,山林が町域の大部分を占める。矢田川河口東側の香住港をはじめ,柴山,余部(あまるべ),鎧(よろい)などの漁港があり,底引網とイカ釣漁業,冬のマツバガニ漁が盛んで,京阪神市場へ水産物を供給する基地となっている。中心の香住地区では水産物加工業が活発で,水産業関係の官庁の出先機関も集中する。…
…一方,挂甲は短冊形の小札(こざね)を革紐や組緒で威(おど)してつくっているため,短甲に比べて動きやすい。騎馬の風習と関連して5世紀中葉に出現し,正倉院に伝わる挂甲を経て平安時代の大鎧へと変化する。冑には衝角付(しようかくつき)冑,眉庇付(まびさしつき)冑のほかに,小札を革紐で綴じ合わせた冑が4世紀代にある。…
…(1)鎧(よろい)の付属具で,武装したとき肩先から左右の腕,手を守る装身具。布製の筒状の袋をつくり,鎖,鉄金具をつけて仕立てる。…
※「鎧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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