荒谷村(読み)あらやむら

日本歴史地名大系 「荒谷村」の解説

荒谷村
あらやむら

[現在地名]天童市荒谷

立谷たちや川右岸、立谷川扇状地の扇頂部から扇央部にかけて位置し、東は地蔵堂じぞうどう村・宮崎みやざき村を経て山寺やまでら(以上現山形市)に連なり、北西は荻野戸おぎのと村に接する。古くは現在地より西方の横街道よこかいどう付近にあったが、天正期(一五七三―九二)に現在地に移ったと伝える。明治九年(一八七六)の地誌書上(山形大学附属博物館蔵)に「当村は字本屋敷並字礫石・字荒谷原三ケ所にこれ有り候処、天正年中之頃当時之場所へ壱ケ所に相成り」とある。天正一四年正月一日の最上義光寄進状(立石寺文書)によれば、久しく絶えていた山寺立石やまでらりつしやく(現山形市)の常灯料として「重澄之郷」の畑二貫八五〇が寄進されている。


荒谷村
あらやむら

[現在地名]松前郡松前町字荒谷

近世から大正一二年(一九二三)まで存続した村。近世は東在城下付の一村松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置し、西は大沢おおさわ村、東は炭焼沢すみやきざわ村。「地名考并里程記」は「此地名和語なるべし」という。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「新屋 家二軒」とみえる。「渡島支庁管内町村誌」によると、曹洞宗海蔵かいぞう庵の創建が享保一七年(一七三二)稲荷神社が元文五年(一七四〇)創立と伝えることから、この頃には村としての体裁が整えられてきたようである。享保十二年所附に「荒谷 此所迄合三十六丁一里」とあり、「すゝき」、黒岩くろいわ、炭焼沢と続く。新谷(東海参譚)、荒屋(西蝦夷地日記)、安良屋(ちしまのいそ)などと記されることもあった。天保郷帳は荒谷村とする。

天明六年(一七八六)の「蝦夷拾遺」では二〇戸たらず、二〇余人。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]府中市荒谷町

上山うやま村の東北にあり、石州路が通り、南へ向かうと出口でぐち村・府中市ふちゆういち村、北へ行くと木野山きのやま村。芦田あしだ郡に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によれば高二九三石余、元禄一三年(一七〇〇)の荒谷村御検地水帳(広島大学蔵)では反別六二町余・高四五五石余。福山藩水野氏断絶後幕府領、元禄一三年以降福山藩領。

「備後郡村誌」に「山九合田畑壱合村ニ御座候、但弐歩水損所、八歩旱損所」とあるような山村で、御林四ヵ所・七八四町余があり、その内訳は中山御林(草山)二四〇町、神谷平鳥越坂左右御林(雑木山)一七二町余、新山御林(雑木草山)四八町、火呑池御林(松木山)三二四町であった。


荒谷村
あらやむら

[現在地名]古川市荒谷

古川宿北方の田園地帯にあり、早くから開け、交通の要地でもあった。栗原郡に属し、東は遠田とおだ沼木ぬまぎ(現田尻町)、北は小野この村、南は遠田郡狐塚きつねづか村、沢田さわだ村、西は長岡ながおか村と接する。古代から中世にかけて長岡郡の一部をなしていたと思われ、「吾妻鏡」建暦元年(一二一一)四月二日条によれば、宮沢みやざわ村にあると考えられている小林おばやし新熊野社を建立した藤原秀衡は、元暦二年(一一八五)長岡郡内の荒野三〇町を寄進したとあるが、この荒野が荒谷であるという確証はない。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]山中町荒谷町

菅生谷すごうだに村・たき村の東にあり、動橋いぶりはし川に北から流入する鶴滝つるたき川と、南から流入する二小流の流域を村域とする。集落は動橋川の左岸にあるが耕地は右岸に多い。下流側を下荒谷、上流側を上荒谷と俗称した。戦国末期、一向一揆の部将藤丸新介が拠ったという赤岩あかいわ城は当村にあったとする説もある(江沼志稿)。越前丸岡まるおか(現福井県丸岡町)浄応じようおう寺は藤丸山と号し、同寺由緒書によると、加賀国江沼郡荒谷の城主藤丸新四郎良教が建立した末応まつおう寺を天正(一五七三―九二)末年に移したものという。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]尾口村東荒谷ひがしあらたに

手取川の支流尾添おぞう川の左岸、三村みむら(一二五八・五メートル)の北麓に位置し、西は瀬戸せと村など。正保郷帳に村名がみえ、高二〇石余、畑一町二反余、免四ツ六歩。元禄一一年(一六九八)の十八ヶ村高小物成帳(斎藤文書)では免四ツ八歩四厘四毛、小物成は夫銀一三匁余。文久三年(一八六三)の白山麓十八ヶ村由緒控(金沢市立図書館蔵)による高四一石余、畑八反、小物成は山手永五〇〇文。同年の村高等書上控(山岸文書)では家数一二・人数六四。林業をおもな生業としたが、東の尾添村との間に争論が発生。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]武生市荒谷町

日野山北麓の深く入った谷奥にあり、西の尾根境に西谷にしたに村と隣り合う。中世の西谷庄内の一村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも西谷庄に含まれ、正保郷帳に村名がみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時土岐頼殷領となるが、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。

享保六年荒谷村明細書(河端家蔵)によれば、田方七町余で一三四石余、畠方三段余で六石余、屋敷二段・家数一四(うち本百姓六・水呑八)・人数六〇(うち男二九・女三一)。また「畑方之儀ハ夏ハ粟・稗、秋ハ蕪大根作り申候」、「井堰五箇所御座候、ふせ木杭木芝石堰ニ、川はは弐間御座候、此川筋之儀ハ、日野山谷川筋用水ニ引取申候」、「夫銭之事、先年ハ高半家半ニ懸り申候、近年ハ高懸りニ御座候」、「油木畠之内ニ少少植置候へ共、所ニ用申程無御座候、福井御領粟田部村ニ油実買調しほり用申候」と記す。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]小松市西荒谷町にしあらたにまち

日用ひよう川上流山間部にあり、川沿いを除いて山が深い。北は牧口まきぐち村。正保郷帳では高一六八石余、田方七町三反余・畑方二町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一六五石、免四ツ三分、小物成は山役一七〇匁、鳥役一一匁(出来)、漆役九匁であった(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には家数一二(うち本百姓九・頭振三)、人数男二五・女二〇、一〇年はえの薪一〇束を一口として八三口の持山がある(小松市史)


荒谷村
あらだにむら

[現在地名]矢部町荒谷

東は津留つる村、北は牧野まきの村・白小野しらおの村、南は下益城郡越早おつそう(現砥用町)に接する。慶長八年(一六〇三)一二月九日の長尾安右衛門宛の加藤清正黒印状(弥富文書)に村名がみえ、当村の総高一〇九石四斗七升五合が宛行われている。下益城郡境近くにいけの城跡がある。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」は小村に河井野を記す。


荒谷村
あらたにむら

[現在地名]福井市荒谷町

丹生山地北部、七瀬ななせ川の支流荒谷川流域の小谷間に位置する。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高四八三・一六石が記される。正保郷帳によれば田方三四三石余・畠方一三九石余。福井藩領。「越前地理指南」に「三ケ所居ス 荒谷村」とあり、元禄一一年(一六九八)の御国絵図作成に付差上(高氏家文書)に枝村としては「上荒谷村」「林村」を記す。

「続片聾記」「国事叢記」などによると、福井藩主四代松平光通の庶子権蔵(直賢・直堅とも)は当村に寄寓していたが、延宝元年(一六七三)江戸へ出奔し、藩主相続をめぐる御家騒動になりかけた。


荒谷村
あらやむら

[現在地名]川口町荒谷

古志こし郡境近くの山村。相川あいかわ天納てんのうから三国街道を分岐した道が通り、岩間木いわまぎ(現小千谷市)方面に抜けた。天和三年郷帳に「荒屋村」と記し、高一三石二斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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