南北朝期,京都・鎌倉の五山の制にならい肥後(熊本)菊池の豪族菊池武光により同地に定められた臨済宗寺院で,輪足山東福寺,無量山西福寺,手水山南福寺,袈裟尾山北福寺,九儀山大琳寺の5寺および〈五山の上〉熊耳山正観寺などがそれにあたる。正観寺は1344年(興国5・康永3)ころ菊池15代武光が菩提所として建立し,大方元恢(たいほうげんかい)を開山とした。1451年(宝徳3)には十刹に列せられている。東福寺は938年(天慶1)叡山僧証慶法印の開基と伝え,天台宗叡山正覚院の末寺であったが,その後衰微し,五山建立のとき再興。西福寺は709年(和銅2)の開基と伝え,菊池氏家臣赤星氏の墓などがある。南福寺は,当初天台宗であったらしいが詳しくは不明。北福寺は弘仁年中(810-824),伝教大師開基の寺伝をもち永福寺と称していたが,五山建立に際し改称された。大琳寺は初め,現在地の南方古堂に存したが1755年(宝暦5)ころ当地へ移転したという。
執筆者:上田 純一
江戸後期の漢詩人。高松藩儒の家に生まれた。生年は1772年(安永1),没年は1853年(嘉永6)とも言われる。名は桐孫,字は無絃,通称左太夫,五山は号。少年時に京都に出,さらに1789年(寛政1)ころ江戸に下り,市河寛斎について詩を学んだ。その後しばらく江戸を離れたこともあるが,1805年(文化2)以後は江戸で活動し,大窪詩仏とともに幕末江戸詩壇の指導的立場にあった。その主著の《五山堂詩話》は,多くの詩人の作品を紹介しては批評を加えるという形式のもので,正編10巻,補遺5巻が07年から32年(天保3)ころにかけて順次刊行されて,自然と詩壇の機関誌のような役割を果たした。五山の批評が公正で権威があったため,当時の詩人たちはこの書に収録されることを名誉とした。
執筆者:日野 竜夫
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(揖斐高)
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江戸後期の漢詩人。名を桐孫(まさひこ)、字(あざな)を無絃、号を五山、通称を左太夫(さだゆう)という。高松藩の儒者の家に生まれる。京都で柴野栗山(しばのりつざん)に学び、のち江戸に下って市河寛斎(いちかわかんさい)の江湖(こうこ)詩社に入り、漢詩人として活躍した。早く江戸・深川の狭斜(きょうしゃ)の巷(ちまた)を漢詩に詠んだ『深川竹枝(ふかがわちくし)』で詩名をうたわれた。中国清(しん)の袁枚(えんばい)の『随園詩話(ずいえんしわ)』を手本に、1807年(文化4)以後『五山堂詩話』をほぼ年刊の形で15巻まで出版し続け、同時代の詩人の詩を広く論評紹介して、文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)の漢詩批評誌としての役割を果たした。嘉永(かえい)2年6月28日没。没年については、安政(あんせい)2年、安政6年などの異説もある。
[揖斐 高]
『富士川英郎著『江戸後期の詩人たち』(1973・筑摩書房)』
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