蓮乗寺(読み)れんじようじ

日本歴史地名大系 「蓮乗寺」の解説

蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]中主町比江

比江ひえ集落の中央部にある天台真盛宗の寺院。清水山と号し、本尊阿弥陀如来。寺蔵の「大比江郷蓮乗教寺縁起」によると、天長元年(八二四)奥州の沙門禅源が比叡山で修行中に夢告を得て山門を去り、当地を訪れ、長沢ながさわ神社の神宮寺として当寺を建立したという。寺蔵の木造毘沙門天立像(国指定重要文化財)は、禅源が本尊として祀ったもので、空海作と伝える。なお毘沙門天に伝わる縁起によると、当寺は空海が天長元年建立したが、近くに清水の仏供水がなく、毘沙門天の告げによって霊水を得たので、これを喜び毘沙門天の尊像を彫刻したともいう。


蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]打田町西井阪

打田町の最西端に位置し、南側は紀ノ川北岸沿いに大和街道が通る。霊瑞山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寛永一五年(一六三八)三月に当寺住職了恵によって記された蓮乗寺代々記(寺蔵)によると、本願寺八世蓮如の頃、西善が蓮如筆の六字名号を授けられて道場を営み、その後に西願・善正と相伝されたというが、それ以前も「常ニカナ聖教ヲモヨミカイケ(勧化)サムケ(懺悔)セシナリ」とあり、教化勧進活動をしていたという。善正のときの永正三年(一五〇六)一一月二八日には本願寺九世実如より本尊を受けている。この頃は繁盛し、田畑も増加していたといい、同代々記には「ソノコロ根来寺繁昌ノ砌ナリ、ソノ節ホソノチン(細野陣)アラカハチン(荒川陣)アリ、田中カウサキトノ(高崎殿)ソノホカ名主、フカイリウシロマキイリミタルヽ時、助九郎(善正)テカラ(手柄)ヒルイナシ」として、当寺が細野陣・荒川陣なる戦いに参加し、その功績で寺領を得たことが記される。


蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]水戸市元吉田町

吉田よしだ神社の東方に位置し、常照寺じようしようじ池谷津の東側台地上にある。花光山通如院と号し、日蓮宗。本尊は十界勧請木門の曼荼羅・三宝尊・高祖御聖容四菩薩。

元禄元年(一六八八)日慈の開基と伝えるが、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)法華宗の部には「此寺開基ハ慶長八年先師日福代ニ芦沢伊賀并一門衆寄合建立」とある。


蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]氷見市朝日本町

上日じようにち寺の神明神社を隔てた北東にあり、直至山と号し、本尊十界曼荼羅。富山県内最古の日蓮宗寺院。開山は妙典院日暹で、創立は元亨年間(一三二一―二四)という。初め石動山天平てんぴよう(現石川県鹿島町)の板首だった日暹は、越後で摩訶一院日印に教化され、頭川ずかわ(現高岡市)に坊舎を置いたのに始まり、稲積いなづみ村、氷見町なか町を経て、天保一五年(一八四四)現地に移転した。


蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]長野市松代町御安町

久竜山と号し、甲州身延久遠寺末で日蓮宗。本尊十界曼荼羅。

寺伝によれば、文永八年(一二七一)当地の久竜源吾と称する者が法華を信仰していたが、霊夢によって日蓮上人地蔵峠で迎え、自家に招待して弟子となり、蓮乗院日縁と号した。


蓮乗寺
れんじようじ

[現在地名]下関市大字安岡

安岡やすおかの字脇浦わきうらにある。浄土真宗本願寺派で金海山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、大内家家臣桝本隣右衛門尉貞行が明応六年(一四九七)上洛し、本願寺蓮如に帰依、法名祐西をもらって安岡の地に一庵を結んだのに始まるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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