江戸時代,大名(藩),旗本などの諸領主が大坂,大津,堺などの諸都市に置いた貢租米や特産品の販売担当者,あるいはその職務。一般的には,これら諸都市に置かれた蔵屋敷の主たる構成員として,蔵物の管理,出納を行う者,あるいはその職務をさす。大坂に置かれた蔵屋敷の場合,江戸時代の初めには各藩から派遣された武士の蔵元がみられたが,寛永年間(1624-44)以降,しだいに町人がその任にあたるようになった。これを町人蔵元とよぶが,このような傾向は寛文年間(1661-73)以降一般的なものとなり,元禄年間(1688-1704)では100名以上に及んだ。彼らは,通常,武士身分に取り立てられ,扶持米を与えられた。また,蔵物の販売に際しては一定の口銭を得るほか,諸藩に対して金銀の貸付けを行う場合もあった。なお,諸藩に対する貸付けは,蔵元以外の蔵屋敷の立入人によっても行われた。このような町人蔵元の多くは,大坂の有力な商人であったが,なかでも,鴻池善右衛門,平野屋五兵衛,天王寺屋五兵衛などは有名であった。鴻池屋は岡山・広島・福岡藩,平野屋は熊本・松山・土浦・徳山藩というように,彼らは1人で数藩の蔵元を兼ねていた。江戸時代の諸藩の財政収入は,主として農民から取り立てた貢租米の販売収益に依存していたが,その中心は蔵屋敷を通じての蔵物の販売にあった。したがって,この蔵物を取り扱う蔵元は,一般に藩財政の上で大きな力をもっていた。しかも大坂の場合,掛屋など蔵屋敷の他の職務を兼ねる蔵元が少なくなかった。この場合には,貸付けを通じて藩との金融関係がいっそう強まる結果となり,藩財政に対する蔵元の経済的実力,優位性はさらに強化されることとなった。
執筆者:本城 正徳
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江戸時代の蔵屋敷においてその管理にあたった町人もしくは武士をいう。初期には武士の蔵元が多かったが、のち町人が主流となった。初期の町人蔵元は諸藩の年貢米販売委託業者的なもので、自己の責任で年貢米を販売した。大坂の淀屋辰五郎(よどやたつごろう)一族などがその例である。17世紀後半以降、蔵屋敷での米販売は入札制となり、蔵元の役割は、入札仲買の選定、入札時期の決定、蔵物の保管・出納(すいとう)業務が主となった。蔵元たる町人には扶持米(ふちまい)のほか、蔵物取扱いの口銭が与えられ、また掛屋(かけや)(蔵物代銀を収納・保管する者)を兼ねる者も少なくなかった。鴻池屋善右衛門(こうのいけやぜんえもん)、加島屋久右衛門(かじまやきゅうえもん)などが有名な蔵元である。
[宮本又郎]
近世琉球(りゅうきゅう)で宮古(みやこ)、八重山(やえやま)、久米島(くめじま)に置かれた官衙(かんが)のこと。蔵許とも書く。設置の年代は不明であるが、近世初頭にはすでに存在し、地域支配のうえで重要な役割を演じている。宮古は平良(ひらら)に、八重山は石垣(いしがき)に、久米島は仲里(なかざと)・具志川(ぐしかわ)の両間切(まぎり)にそれぞれ置かれたが、代表的なものは宮古、八重山の蔵元である。蔵元の行政機構の最高ポストは在地の頭(かしら)(3人制)であり、その下に勘定座(かんじょうざ)、系図方(けいずほう)などの座(ざ)、方(ほう)(行政上の部署)があって、それぞれ担当役人が勤務していた。各村(むら)、島々には首里大屋子(しゅりおおやこ)、与人(ゆんちゅ)、目差(めざし)などが蔵元から派遣されて統治にあたった。なお、首里王府は、在番(ざいばん)と称する役人を現地に派遣して、頭以下の蔵元の管理を行わせた。現在、久米島町の真謝(まじゃ)には蔵元の建物はないが当時の石垣が残っており、旧仲里間切蔵元石牆(せきしょう)として国の重要文化財に指定されている。
[高良倉吉]
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江戸時代,大坂・江戸・敦賀・大津・長崎などにおかれた諸藩の蔵屋敷で蔵物の売却や出納をつかさどった商人。多くの場合掛屋(かけや)を兼ねた。はじめは藩の蔵役人が担当したが,17世紀中頃から富商が行うようになった。この場合,諸藩から扶持米を給与されたり,蔵物を売却する際に口銭を与えられ,何かと利益が大きかった。このため大商人は競って蔵元・掛屋になろうとし,18世紀中頃の大坂には,100人をこえる蔵元が存在した。諸藩は蔵物を売却した収入で藩財政を運用していたが,やがてこの売却代金だけでは不十分となり,蔵元・掛屋からの融通に依存するようになった。
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…1609年(慶長14)の島津侵入事件(琉球征服)を契機とする近世期に入ると,島政は著しく強化されるようになる。まず宮古島とその周辺離島を平良,下地(しもじ),砂川(うるか)の3間切(まぎり)に区分し,3人制の頭(かしら)を頂点とする島政機関〈蔵元(くらもと)〉の整備がはかられた(1628)。そして,島政の御目付として〈在番〉が首里王府から派遣されてきて常駐するようになり(1629),全体を首里王府の御物(おもの)奉行が総理する体制が確立した(1650)。…
…1609年(慶長14)の島津侵入事件(琉球征服)後の近世期に入ると統治が強化された。まず各島各村を石垣,大浜,宮良(みやら)の3間切(まぎり)に区分し,3人制の頭を頂点とする島政機関〈蔵元〉が整備され,御目付として首里から〈在番〉が派遣されて常駐するようになり(1632),島政全体を首里王府の御物(おもの)奉行が総理する体制が確定された(1650)。一方,村々,島々に対しては蔵元から首里大屋子(しゆりおおやこ),与人(ゆんちゆ),目差(めざし)と称される〈噯(あつかい)役人〉が派遣され,末端の地方行政を担当した。…
…その米切手は未着米に発行されたという意味で〈先納切手〉,また実米の裏づけがないという意味で〈調達切手〉と俗称された質入切手である。浜方の大名貸が増大し,蔵元や掛屋にも浜方出身者が進出し,これを含めて数人の館入(立入)が扶持・知行を与えられて恒常的に貸付けに応じ,江戸仕送りも数人の館入に分担された。この段階での大名貸の推移は米切手売高と実米登高とのへだたりの度合に集約されており,これを把握する蔵元が藩の経済力を熟知して藩財政に助言を与え,貸手を統轄して大名貸を合理的に処理しようとした。…
※「蔵元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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