西光院(読み)さいこういん

日本歴史地名大系 「西光院」の解説

西光院
さいこういん

[現在地名]宮代町百間 東

古利根川右岸沿いにあり、江戸時代ひがし村に位置した。真言宗智山派、百間山西光院光福こうふく寺と号する。本尊は安元二年(一一七六)造立の阿弥陀如来三尊像(国指定重要文化財)。西光院勧進帳(西光院文書)では行基の開創、安部仲丸の伽藍造営などと伝えているが、詳細は不明。当寺所蔵の五月一三日付太田資正判物写、永禄一三年(一五七〇)二月二〇日付北条康成書状、天正一四年(一五八六)三月一一日付太田氏房判物などの内容をみると、百間もんま領の総社とする説もある五社権現(現五社神社)の別当であった可能性が高い。


西光院
さいこういん

[現在地名]小田原市本町二丁目

松原まつばら神社の東隣、宮小路みやこうじに面する。東寺真言宗、松原山南勝なんしよう寺と号し、本尊不動明王。開山箱根権現金剛王こんごうおう院四一世融山(風土記稿)

「筥根山縁起序」は、もと箱根芦ノ湖畔室河津むろかわつにあり、玄の創建で西光寺と称したが、行基が来山し西光院と改称したと伝える。天文年間(一五三二―五五)箱根権現に帰依していた北条氏綱が松原大明神の供僧寺として勧請したという(「西光院由緒書」蓮上院文書)


西光院
さいこういん

[現在地名]大洗町大貫町

清水しみずの集落西側の台地上にある。単立寺院で、古内山宝生寺と号し、本尊は阿弥陀如来。

応永五年(一三九八)下総国の千葉氏一族の千葉式部大夫資胤が村内に一杯いつぱい館を構築、その一族出身の宥祖が招かれ、同二四年に館の祈願寺として真言宗の西光院を建立した。宥祖は同三年より上入野かみいりの(現常北町)小松こまつ寺の宥尊に法を受け、石沢いしざわ(現那珂郡大宮町)一乗いちじよう院を開山、のち下総国井出野いでの延寿寺西光院に帰っている。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると京都醍醐だいご三宝さんぼう院の直末で、六石余の除地をもち、村内に末寺二(宝幢院・常福寺)、門徒七(功徳院・観音院・蓮花院・真福院・安養院・宝光院・福寿院)宝幢ほうどう院門徒の徳蔵とくぞう院を有した。


西光院
さいこういん

[現在地名]浪岡町北中野 天王

北中野きたなかの天王てんのう地区にある。行岳山と称し、浄土宗。本尊は阿弥陀三尊像。もと弘前貞昌ていしよう寺末。

開基金光。金光は法然の高弟で、正治二年(一二〇〇)から東国布教に努め、承元四年(一二一〇)外ヶ浜そとがはま蓬田よもぎた(現東津軽郡蓬田村)で川より阿弥陀如来像を得て布教活動をした。藤崎安東氏の保護で建保三年(一二一五)西光寺を建てた。同五年没して金光こんこう塚に葬られた。西光寺は浪岡御所時代は後のにい館の場所にあったが、大永年間(一五二一―二八)新館を建てたので現在地に移ったという(西光寺縁起)


西光院
さいこういん

[現在地名]鉾田町烟田

東に大谷津を望み、南に烟田かまた城跡に隣接する丘陵上にある。無量山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。鎌倉初期に烟田為三郎助吉入道が建立し、烟田朝秀より不断念仏時衆料として田地三町の寄進を受けた阿弥陀堂が西光院の前身といわれるが詳細は不明。正応二年(一二八九)八月一八日の平義幹寄進状(烟田文書)によれば、阿弥陀堂の別当職には助吉入道の孫蓮心の子孫が代々相承したとある。

その後、烟田氏の保護の下に発展、烟田旧記(続常陸遺文)天正六年(一五七八)三月一日に「西光院くるはの土突始卅日終候」、また同七年五月二一日に「万福寺永代西光院おちつき候 為御祝儀塙和泉被越申候」とみえる。さらに同一二年四月三日には「天下一の狂言大夫親も被越候、五日西光院にて五番狂言致候、八日大手門にて九番狂言致し、十日被払候其名をゑん藤四郎衛門と申者に候、塙右近・成田惣左衛門職申両三人けいこ被申候礼儀みの茶にいたし候」とみえ、烟田氏との関連がうかがわれる。


西光院
さいこういん

[現在地名]當麻町大字竹内

竹内たけのうち集落のほぼ中央南寄りに位置。白雲山未来みらい寺と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば享保年間(一七一六―三六)に第一三世浄誉が本堂を再建したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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