日本歴史地名大系 「鎌田村」の解説
鎌田村
かまたむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千一二〇石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ二分,家数二四(役家一〇,肝煎二,寺・山伏・座頭・脇家一二),人数五一,役木として桑・楮がある。米沢藩領時代の古高一千七六九石余,幕府検地による新高一千九五六石余で(古高新高帳),内訳は町鎌田村一千二二一石余・向鎌田村七三五石余(福島市史)。
鎌田村
かまたむら
南北朝期には石川蒲田五郎太郎兼光が北朝方に属して戦い、建武二年(一三三五)八月足利尊氏から当地を含む石川庄内本知行分を安堵され(「足利尊氏下文」遠藤白川文書)、翌年四月二五日に岩瀬郡
鎌田村
かまだむら
- 静岡県:伊東市
- 鎌田村
東・北は
鎌田村
かまたむら
- 東京都:世田谷区
- 鎌田村
大蔵村の南にあり、多摩郡に属する。大蔵村の中に小島が点在するような形で錯雑してあり、集落があったのは現鎌田四丁目辺りの字
鎌田村
かまたむら
上川原新田の西に位置する。中世は鎌田郷と称された。正応五年(一二九二)三月二六日の惟秀譲状(斎藤文書)は、「かまたの
鎌田村
かまたむら
鎌田村
かまたむら
北浦の東岸に位置し、北は
と記される。鎌倉初期に烟田氏の所領となり、朝秀以降代々相伝された。応永年間(一三九四―一四二八)惣領鹿島出羽守憲幹が鹿島神宮社人との紛争で所領を没収された際に、烟田氏も所領を失い、一時一色兵部の知行地になったが、室町幕府の裁定により烟田氏の所領に戻った(→大和田村)。また長禄四年(一四六〇)一〇月一八日の旦那売券(米良文書)に「常陸国釜田之仙蔵房」とある。
天正一九年(一五九一)二月、烟田山城守通幹が
鎌田村
かまだむら
鎌田村
かまたむら
鎌田村
かまだむら
荒川村の北、
鎌田村
かまだむら
鎌田村
かまだむら
鎌田村
かまだむら
- 長野県:松本市
- 鎌田村
松本城下町をめぐる
中世には
産土天神が村の西にある。「信府統記」に「産土天神 社地東西八間、南北九間縁起来由知レズ」とあるが、この地は井川城に居館した小笠原氏が京都北野天満宮を勧請したものである。
鎌田村
かまだむら
鎌田村
かまのたむら
鎌田村
かまたむら
- 兵庫県:豊岡市
- 鎌田村
鎌田村
かまだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報