谷干城(読み)タニカンジョウ

デジタル大辞泉 「谷干城」の意味・読み・例文・類語

たに‐かんじょう〔‐カンジヤウ〕【谷干城】

[1837~1911]軍人政治家。陸軍中将。土佐藩士。名は「たてき」とも。戊辰ぼしん戦争に功を立て、西南戦争では熊本鎮台司令長官。のち、伊藤内閣の農商務相。

たに‐たてき【谷干城】

たにかんじょう(谷干城)

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精選版 日本国語大辞典 「谷干城」の意味・読み・例文・類語

たに‐たてき【谷干城】

  1. 軍人、政治家。土佐国の人。名は「かんじょう」とも。隈山と号する。西南戦争当時の熊本鎮台司令長官として、西郷軍から鎮台を守る。のち第一次伊藤内閣の農商務大臣。欧州視察後、国政改革を企画し、時の外務大臣井上馨らの欧化主義政策に反対し、国粋保守主義を唱えたが、意見が合わず辞職。漢文に長じ、文章もよくした。天保八~明治四四年(一八三七‐一九一一

たに‐かんじょう【谷干城】

  1. たにたてき(谷干城)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「谷干城」の意味・わかりやすい解説

谷干城(たにかんじょう)
たにかんじょう
(1837―1911)

幕末・明治期の軍人、政治家。名は「たてき」ともよばれる。土佐藩士谷万七・伊久の長男として、天保(てんぽう)8年2月12日土佐国(高知県)に生まれる。幼名申太郎、のち守部。号は隈山。江戸で修学ののち、土佐藩小目付(めつけ)役、致道館(ちどうかん)助教、長崎表探索御用(ながさきおもてたんさくごよう)などの役を勤め、1867年(慶応3)薩土盟約(さつどめいやく)交渉にもあたった。戊辰戦争(ぼしんせんそう)後は一時土佐藩政改革に関与。1871年(明治4)兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)に任ぜられて以後、陸軍裁判所長官、熊本鎮台司令長官、士官学校長ともっぱら軍職を歴任した。この間、西南戦争時には熊本籠城(ろうじょう)を経験。1878年陸軍中将。1881年鳥尾小弥太(とりおこやた)、三浦梧楼(みうらごろう)、曽我祐準(そがすけのり)とともに国憲創立、議会の開設を建白するなど、中正党派として活動した。1884年学習院長、1885年農商務大臣を歴任。1887年に西欧視察から帰朝、当時進行しつつあった井上馨(いのうえかおる)の条約改正に抗議辞職した。以後、極端な西欧模倣は日本エジプトのような植民化に押しやるものであると批判し、日本の伝統に基づいた自力による着実な富国強兵(「日本主義」)を唱え、新聞『日本』を創刊し、大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正に反対する運動では日本倶楽部(くらぶ)を組織して活動した。1890年貴族院子爵議員、以後連続互選された。議会では政費節減、勤倹尚武を唱え政府批判派として活動。日清戦争後は軍拡抑制、地租増徴反対を主張し、また足尾銅山鉱毒事件を批判するなど少数派として特色ある活動をした。

[酒田正敏]

『平尾道雄著『子爵谷干城伝』(1935・冨山房)』『島内登志衛編『谷干城遺稿』全4巻(1975~1976・東京大学出版会)』『小林和幸著『谷干城――憂国の明治人』(中公新書)』



谷干城(たにたてき)
たにたてき

谷干城

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朝日日本歴史人物事典 「谷干城」の解説

谷干城

没年:明治44.5.13(1911)
生年:天保8.2.12(1837.3.18)
明治期の陸軍軍人,政治家。土佐(高知)藩士谷万七の子。家系は土佐の著名な神道家で国粋派。安政6(1859)年江戸で2年間安井息軒の三計塾に学ぶ。帰郷して文武館の史学助教。桜田門外の変(1860)に触発され,また武市瑞山に啓発を受け尊王攘夷運動に参加。慶応1(1865)年藩命で長崎,上海視察,翌年西郷隆盛らと会談し薩土討幕密盟に加わった。戊辰戦争では大軍監として東北に転戦。明治4(1871)年兵部省に登用され,6~8年熊本鎮台司令長官。7年佐賀の乱の鎮定に当たり,台湾出兵の際は台湾蕃地事務参軍として西郷従道を補佐した。9年神風連の乱後熊本鎮台司令長官に再任,西南戦争(1877)で籠城2カ月,薩軍の攻撃に耐え熊本城を死守した。11年中将,東部監軍部長,その後陸軍士官学校長兼戸山学校長,中部監軍部長を歴任,14年長崎墓地移転問題で辞表を提出したが明治天皇は許さなかった。 同年開拓使官有物払下げ事件が起こると,鳥尾小弥太,三浦梧楼,曾我祐準らと払下げの再議,国憲創立議会の開設を建白,薩長専制を批判するとともに陸軍反主流派としての立場を強めた。このとき佐々木高行らと中正党を結成。17年学習院院長となる。18年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となって,19~20年に欧州視察をし,帰国後すぐに「時弊救匡策」を草して政府の情実,皮相な欧化政策をはげしく批判し,折から進行中の外相井上馨による条約改正にも反対して,農商務大臣を辞職。天皇は学習院御用掛,枢密顧問官などへの就任を希望したが,固辞した。また新聞『日本』(社長陸実)を主宰して「日本主義」を提唱,在野国権派の結集をはかろうとした。22年8月杉浦重剛,三浦らと日本倶楽部を結成して外相大隈重信による条約改正に反対,このとき民間の反対集会に参加したため予備役に編入された。議会開設(1890)以降は貴族院議員,懇話会のリーダーとして有力な反政府勢力を築いた。日清戦争(1894~95)後の過大な領土的要求を戒めたり,31年地租増徴問題で反対し,日露開戦にも反対した。<参考文献>平尾道雄『子爵谷干城』,島内登志衛編『谷干城遺稿』

(田浦雅徳)

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改訂新版 世界大百科事典 「谷干城」の意味・わかりやすい解説

谷干城 (たにたてき)
生没年:1837-1911(天保8-明治44)

明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。この年,三浦梧楼,鳥尾小弥太,曾我祐準と月曜会を組織し,国憲創立・議会開設を建白して軍主流派の山県有朋と対立して陸軍を去る。84年学習院院長,子爵。85年第1次伊藤博文内閣の農商務大臣となったが,井上馨外相の条約改正案と欧化主義に反対して87年7月に辞職。88年再び学習院院長となり,1890-1911年,貴族院の子爵議員となる。この間,1898年山県内閣の地租増徴案には農本主義の立場から貴族院の同志と反対同盟をつくり,12月には2000余人を集めて反対大会を開き,また1902年にも桂太郎内閣の地租増徴案には曾我らと農民保護を主張して強硬に反対した。日露開戦にも親露排英主義の立場から批判的立場をとった。なお,1889年には陸軍予備役に編入され,1906年に陸軍中将で退役した。11年旭日桐花大綬章を授けられ,正二位に叙せられた。
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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「谷干城」の解説

谷 干城
タニ タテキ


肩書
農商務相,貴院議員

別名
通称=守部 号=隈山

生年月日
天保8年2月12日(1837年)

出生地
土佐国高岡郡窪川村(高知県)

経歴
土佐藩士。安政3年(1856)江戸に遊び、安井息軒の塾に学び、武市瑞山の公武合体説を知る。明治維新のおりは東山道総督府大軍監。4年兵部権大丞、5年陸軍少将、6年熊本鎮台司令長官となり、7年佐賀の乱を鎮圧。台湾出兵の際は台湾蕃地事務参事として西郷従道を補佐。10年西南戦争では熊本鎮台司令官として熊本城を死守。11年陸軍中将、12年陸軍士官学校長、13年中部監軍部長。同年議会開設を建白して山県有朋らの主流派と対立し、陸軍を去る。17年学習院院長。18年第1次伊藤内閣の農商務相をつとめ、国粋主義の立場から井上馨らの条約改正案に反対し、下野。23〜44年貴院子爵議員。農民保護を唱えて、地租増徴案・日露開戦に反対した。39年退役。「谷干城遺稿」(全2巻)がある。

受賞
旭日桐花大綬章〔明治44年〕

没年月日
明治44年5月13日

家族
父=谷 万七(土佐藩校教授)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「谷干城」の解説

谷 干城
タニ タテキ

明治期の陸軍中将,政治家,子爵 農商務相;貴院議員。



生年
天保8年2月12日(1837年)

没年
明治44(1911)年5月13日

出生地
土佐国高岡郡窪川村(高知県)

別名
通称=守部,号=隈山

主な受賞名〔年〕
旭日桐花大綬章〔明治44年〕

経歴
土佐藩士。安政3年(1856)江戸に遊び、安井息軒の塾に学び、武市瑞山の公武合体説を知る。明治維新のおりは東山道総督府大軍監。4年兵部権大丞、5年陸軍少将、6年熊本鎮台司令長官となり、7年佐賀の乱を鎮圧。台湾出兵の際は台湾蕃地事務参事として西郷従道を補佐。10年西南戦争では熊本鎮台司令官として熊本城を死守。11年陸軍中将、12年陸軍士官学校長、13年中部監軍部長。同年議会開設を建白して山県有朋らの主流派と対立し、陸軍を去る。17年学習院院長。18年第1次伊藤内閣の農商務相をつとめ、国粋主義の立場から井上馨らの条約改正案に反対し、下野。23〜44年貴院子爵議員。農民保護を唱えて、地租増徴案・日露開戦に反対した。39年退役。「谷干城遺稿」(全2巻)がある。

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百科事典マイペディア 「谷干城」の意味・わかりやすい解説

谷干城【たにたてき】

政治家,軍人。号は隈山。土佐(とさ)高知藩出身。1871年兵部権大丞を振出しに軍人となり,1873年から熊本鎮台司令長官,この間,台湾出兵時には参軍として従軍,また佐賀の乱西南戦争に活躍。陸軍士官学校長,学習院長歴任後,第1次伊藤博文内閣の農商務相。1886年―1887年の欧米視察後,井上馨外相の条約改正案,欧化政策に反対し辞職。ナショナリズム鼓吹の論をはったが,一方で健全財政論,防御中心の軍備を唱え,日露開戦にも反対した。
→関連項目陸羯南鳥尾小弥太

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「谷干城」の意味・わかりやすい解説

谷干城
たにたてき

[生]天保8(1837).2.12. 土佐,窪川
[没]1911.5.13. 東京
政治家,軍人。号は隈山。江戸に出て安積艮斎,安井息軒に学び藩校助教となり,戊辰戦争に従軍。明治4 (1871) 年陸軍裁判所長,1873年熊本鎮台司令長官として佐賀の乱を鎮定した。征台の役にも従軍。 77年再び熊本鎮台司令長官となり西南戦争では熊本城に2ヵ月籠城して西郷軍を阻止。 78年陸軍中将,陸軍士官学校長。 84年学習院長,華族女学校長となった。子爵。 86年第1次伊藤博文内閣の農商務相となったが,外相井上馨の条約改正案に反対して辞任。 90年貴族院議員。大隈外相の条約改正,地租増徴,日英同盟に反対した。日清,日露両戦争にも批判的であった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「谷干城」の解説

谷干城
たにたてき

1837.2.12~1911.5.13

幕末~明治期の高知藩士・軍人・政治家。土佐国生れ。戊辰(ぼしん)戦争で軍功をあげ,藩少参事として藩政改革に尽力。維新後,1871年(明治4)陸軍大佐・兵部権大丞。台湾出征後,熊本鎮台司令長官として西南戦争に遭遇,熊本城を堅守した。中将に昇進し,陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任。84年子爵。85年伊藤内閣の農商務相。閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し,条約改正問題で辞任。以後,貴族院議員として地租増徴に反対するなど独自な政治運動を展開した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「谷干城」の解説

谷干城
たにたてき

1837〜1911
明治時代の軍人・政治家
名は一般に「かんじょう」と称されている。土佐藩出身。戊辰 (ぼしん) 戦争に活躍,西南戦争では熊本鎮台司令官として熊本城を死守した。陸軍中将で退役し,自由党に反対して保守的な中正党を組織。第1次伊藤博文内閣の農商務相となったが,外相井上馨の欧化政策・条約改正案に反対し辞任。その後も大隈重信の条約改正案反対・日英同盟反対など,政府批判の立場をとり,政界に重きをなした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「谷干城」の解説

谷干城 たに-たてき

1837-1911 明治時代の軍人,政治家。
天保(てんぽう)8年2月12日生まれ。もと土佐高知藩士。維新後陸軍にはいり,熊本鎮台司令長官。西南戦争の際,熊本城を西郷軍の攻撃からまもりぬく。明治11年陸軍中将。第1次伊藤内閣の農商務相となるが井上外相の条約改正案に反対して辞任。学習院院長。貴族院議員。明治44年5月13日死去。75歳。通称は申太郎,守部。号は隈山。

谷干城 たに-かんじょう

たに-たてき

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世界大百科事典(旧版)内の谷干城の言及

【谷干城】より

…明治期の軍人,政治家。名は〈かんじょう〉ともいう。土佐藩士。儒者谷秦山(重遠)の末。幼名守部,隈山と号する。幕末,公武合体論を唱え,戊辰戦争には土佐藩軍監とし東北に転戦。1871年(明治4)兵部権大丞,72年陸軍少将,陸軍裁判所長,73年熊本鎮台司令官となる。74年佐賀の乱を鎮圧し,また台湾出兵に参軍として出陣。76年熊本鎮台司令官に復し,神風連の乱と西南戦争の鎮圧に当たった。78年中将に進み東部監軍部長,80年陸軍士官学校長,81年監軍部長となる。…

【陸羯南】より

…この前後,井上毅らの知遇を得,フランスの反革命主義者J.M.deメーストルの書物を《主権原論》の題で翻訳出版する。88年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職,谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊し,同月創刊の政教社の雑誌《日本人》の〈国粋主義〉に呼応して,〈国民主義〉を唱える。この新聞は翌89年2月改組されて《日本》となるが,たまたま漏洩した大隈重信外相の条約改正案批判を通して,羯南の名は一躍高まる。…

【西南戦争】より

…確かに政府は,この西郷の決起を機会に,士族反乱への徹底的鎮圧のてこにしようと考えていたのである。 2月下旬,熊本城は薩軍に包囲されたが,鎮台司令長官の陸軍少将谷干城がこれを死守し,博多から南下した政府軍と薩軍との間には激戦がくり返された。小倉分営の第14連隊長心得乃木希典少佐が薩軍に軍旗を奪われたのもこのときである。…

【日本】より

…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…

※「谷干城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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