赤沢村(読み)あかさわむら

日本歴史地名大系 「赤沢村」の解説

赤沢村
あかさわむら

[現在地名]津南町赤沢・穴藤けつとう

善光寺道をあしさき村で分岐し、南方に急坂を登って最初の集落が赤沢村本村。本村北西の信濃川右岸の善光寺道沿いに反里そり、本村南方に離れて穴藤の集落がある。天保郷帳によれば、かつてはり村・上反り新田・赤沢村・赤沢惣あかさわそう新田・中子なかご村・穴藤村の六ヵ村であった。信濃川右岸に迫る大断崖上の赤沢平あかさわだいらにあり、善光寺道が川沿いを主力とする以前は信越の交通の要衝を占めていた。このため南北朝期以後戦国期にかけて赤沢平をめぐる攻防がしばしば展開されたと考えられ、赤沢城跡をはじめとして幾つかの城館跡や戦死者供養のためとみられる梵字碑がある。天正七年(一五七九)二月二五日の武田勝頼朱印状案(市河文書)によると、同六年からの御館の乱で上杉景虎から上杉景勝への支援に転じた勝頼は、小菅こすげ(現長野県飯山市)と赤沢の間の軍勢往復のため「人民」を居住させた市河信房を賞している。

正保国絵図に高六六石余とみえる。ほかに楚利村・下結藤村も各一村に記される。元禄七年(一六九四)の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)によると、枝村の古新田は承応元年(一六五二)古町ふるまち新田は明暦元年(一六五五)、赤沢惣新田は慶安元年(一六四八)の開発。


赤沢村
あかざわむら

[現在地名]紫波町赤沢

女牛めうし山に発する赤沢川上・中流域の狭小な沖積地と周辺の広大な山間丘陵地を占める。北は船久保ふなくぼ村・紫野むらさきの村・遠山とおやま村、東は稗貫ひえぬき内川目うちかわめ(現大迫町)と山境、西は星山ほしやま村・大巻おおまき村・彦部ひこべ村、南は佐比内さひない村。遠野街道が通る。寛永一八年(一六四一)の高五七六石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)。正保国絵図に村名がみえ、高三一五石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二三一石余、七ヵ年平均の免一ツ八分二厘二毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方四九七石余・畑方二八四石余、紫野村が入るとある。


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]吉川町赤沢

大出口おおでぐち川に沿って西は中条ちゆうじよう村、南東はいずみ村と接する。赤沢橋がある。弘安五年(一二八二)七月二〇日の尼しやうしやう譲状(佐方文書)に「さんミのしやう上てうあかさわのむら」とみえ、天福二年(一二三四)に母の源氏より手継証文を添えて譲られた当村の田三反を養子ミとや(三刀屋)の女房に譲ったが、女房が先に死去したので女房の嫡子弥三郎へ譲り直している。正応四年(一二九一)六月一〇日および同六年六月二〇日、源助親は子の助光に当村などを譲っている(永仁四年五月二四日「関東下知状」諸家文書纂)。嘉元二年(一三〇四)三月に行った検注によれば、当村の不作・河成などを除いた惣田数は一〇一町六反一二〇歩で、そのうち一町が地頭に給与されており、残りの田に反別六斗三升、計六三三石九斗九升の年貢が賦課されている(同年三月日「西大寺領佐味庄預等三名連署注進状写」西大寺文書)


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]桂村赤沢

那珂川の右岸に位置し、南は上穴沢かみあなざわ村・岩船いわふね村。烏山からすやま馬頭ばとう(現栃木県那須郡)鷲子とりのこ(現那珂郡美和村)方面から水戸への街道に面し、水戸までは五里余で、対岸の野口のぐち(現御前山村)への舟渡しがあった。那珂川沿岸と往還の両側は平坦地であるが大部分は小山岳の連なる山地で、なかでも御前ごぜん山は那珂川に臨み、四方遠近の眺めがよい。

久寿三年(一一五六)頃の鹿島神宮神領目録(賜蘆文庫文書所収の鹿島文書)に「那珂郡ノ内、アカサハ五斗」とあり、また鹿島神宮領田数注文案(鹿島神宮文書)の康永二年(一三四三)正月九日の項には「東郡赤沢十四丁一反半」と記される。


赤沢村
あかざわむら

[現在地名]飯能市赤沢

日影ひかげ村が分立して成立した村。加治かじ領に属した(風土記稿)元禄郷帳に「日影赤沢村」とみえ、高三九二石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、ほかに金錫きんしやく寺領がある。「風土記稿」によれば化政期には三卿の一の一橋領で、家数一一九。古くから農間には紙漉を行い、紙漉戸数が一四、五あるという。天保三年(一八三二)の村明細帳下書控(浅見家文書)によれば反別は五六町七反余、うち田一反余・畑五六町五反余。猪・鹿の害を受けて畑も芝地に変じ、そのため杉・松・雑木等の植林を行っているという。


赤沢村
あかざわむら

[現在地名]伊東市赤沢

現伊東市最南端にある。東は相模灘に面し、北は八幡野やわたの村。集落は東浦ひがしうら路から外れて海岸にあるが、もとは街道沿いにあった。岩波版「曾我物語」巻一に赤沢峯・赤沢山の地名がみえる。北条氏所領役帳には北条家臣御馬廻衆山角四郎左衛門康定の所領として一〇貫文「豆州東浦赤沢」とある。永禄七年(一五六四)一二月二八日の北条家朱印状写(肥田氏由緒書)によれば、赤沢と八幡野の百姓が境相論を起こしている(→八幡野村


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]七会村上赤沢かみあかさわ下赤沢しもあかさわ

藤井ふじい川上流の山中にあり、東は徳蔵とくら村。弘安大田文の東郡に「赤沢十四丁一段半」とあり、吉田社神事次第写(吉田神社文書)には「従笠間郡赤沢」とある。中世は笠間氏の領内にあり、笠間郡十二郷のうちに入っている。慶長年間(一五九六―一六一五)徳蔵村と分村して赤沢村となる(「茨城郡村々様子大概」笠間稲荷神社蔵)

江戸時代を通じて笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]井川町赤沢

井川中流左岸の台地に位置する。東は沢伝いに井内いない村に接し、西部は大野地おおのち台地に続いている。北は井川沿いの葹田なもみだ村に接する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「三百四拾五石三斗九升二合 いない村 うたミ村 大森村 とほら岡村 寺沢村 赤沢村」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六七石とみえ、享保七年(一七二二)の秋田郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県立博物館蔵)には高は本田七九石一斗二合、新田七二石二升九合とあり、新田開発が著しい。


赤沢村
あかざわむら

[現在地名]静岡市赤沢

藁科わらしな川上流に位置し、西は昼居渡ひるいど村。もと清沢きよさわ郷の一部で、寛文一三年(一六七三)の松平左近大夫検地により坂本さかもと・赤沢・鍵穴かぎあな小島こじま寺島てらじまの五ヵ村に分れたという(駿河記)。幕府領として幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・享保一六年駿府代官所村高帳など)


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]村上市赤沢

北西へ流れる門前もんぜん川左岸台地上にあり、大平おおだいら(五六〇・八メートル)の北西山裾にあたる。東は門前村、西は菅沼すがぬま村に接する。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「前赤沢藤内大郎」として「一貫地客庵之前本作彦三郎役三百文 鋳物師屋殿之分」などの記載がある。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分まへあか沢村 下」とみえ、本納一八石一斗七升・縄高五三石五升、家二軒、南方山寄りに描かれる。


赤沢村
あかさわむら

[現在地名]豊橋市東赤沢ひがしあかさわ町・西赤沢にしあかさわ

西伊古部にしいこべ村の西の村。近世、慶長六年(一六〇一)から幕府領、天和元年(一六八一)鳥羽藩領、享保一〇年(一七二五)幕府領となり明治に至る。なお、万場ばんば新田は宝永六年(一七〇九)以前の成立と推定されている(豊橋市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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