客観的事実と主観的認識との不一致。不知と誤解の双方を含む。
民法上,意思表示に関する錯誤が問題となる。ここにいう錯誤とは,表意者の真意(内心的効果意思)と表示の内容とが一致しない意思表示であり,その不一致を表意者自身が知らないでなしたものをいう(いわゆる〈意思の欠缺(けんけつ)〉の一場合である)。10ポンドと書くつもりでうっかり10ドルと書くというような誤記・誤談の類(表示上の錯誤),10ポンドと10ドルとが同価値であると誤解して10ポンドの価値を意図しつつ10ドルと書いた場合(内容の錯誤),受胎した良馬と誤信して駄馬を買った場合(動機の錯誤)などがある。
民法は,錯誤による意思表示は表示に対応する内心的効果意思を欠くので無効であるとの理論によりつつも,すべての錯誤を無効とはせずに,法律行為の要素に錯誤があるときに限定してこれを無効とし,さらに,表意者に錯誤におちいったことについて重大な過失がある場合,表意者自身その無効を主張できないとした(民法95条)。表意者の保護と取引の安全とを調和させる趣旨である。法律行為の要素の錯誤とは意思表示の内容のうち,もしその錯誤がなかったならば,表意者本人のみならず通常人もそのような意思表示をしなかったであろうと考えられるほどに重要な部分における錯誤をいう。また,重過失のため表意者自身が無効を主張できない場合,相手方および第三者も無効を主張できず,さらにまた,相手方や第三者は,表意者の意思に反して無効を主張することはできないと解されている。表意者を保護する趣旨である。
動機の錯誤の場合は,たとえば〈この馬を買う〉という内心的効果意思の形成の過程において,表意者が駄馬を受胎した良馬と誤信して錯誤におちいったにすぎず,〈この馬を買う〉という表示と内心的効果意思は合致していることになる。したがって,従来は,動機の錯誤には原則として民法95条が適用されず,その動機が相手方に表示された場合に限って例外的に内容の錯誤となり,同条の適用があると解されてきた。これに対して,今日,動機の錯誤と他の錯誤とを区別せずに同等に扱うべきであるとする学説が有力に主張されている。動機の錯誤と他の錯誤との区別が必ずしも明瞭でないこと,取引の安全を害する点では動機の錯誤も他の錯誤と異ならず,むしろ両者を統一して取引の安全との調和がはかられるような錯誤無効の要件が考えられるべきこと,判例上最も多く問題となるのは動機の錯誤であり,これを考慮する必要があることなどがその理由である。このように動機の錯誤も95条の錯誤であると解すると,前述の錯誤の定義は不正確とならざるをえない。錯誤とは,意思表示をする者が,意思表示に至る過程もしくは意思表示そのものにおいて,気づかずに事実と一致しない認識もしくは判断をして,これに基づいて意思表示を行った場合である,というべきことになる。
執筆者:平林 勝政
刑法において錯誤は犯罪の故意を阻却するか,いいかえれば,どのような錯誤があれば故意がなかったとされるか,という形で問題になる。錯誤は事実の錯誤と法律の錯誤に大別される。
(1)事実の錯誤(構成要件的錯誤) 構成要件に該当する事実について,行為者の認識と現実に発生したことが一致しない場合をいう。Aを殺そうとピストルで射ったところ,弾丸がそばにいたBに命中したというように,錯誤が同じ構成要件内にある場合(具体的事実の錯誤)と,カカシだと思って器物損壊のつもりで猟銃を発射したところ,それが実は人であって,人を殺してしまったというように,錯誤が異なる構成要件にまたがっている場合(抽象的事実の錯誤)とがある。事実の錯誤の態様には,客体(目的)の錯誤,方法(打撃)の錯誤と因果関係の錯誤がある。客体の錯誤とは,Aと思って殺したところBであった,人だと思いピストルを射ったところ人形であったというように,行為の客体をとり違えた場合をいう。方法の錯誤とは,Aをねらってピストルを射ったところ,弾丸がそれてそばにいたBを殺した,あるいはそばにあった花びんをこわしたというように,結果が行為者の意図とは異なる客体に生じている場合をいう。因果関係の錯誤とは,Aを殺すつもりでピストルを発射したところ,弾丸はそれたが,Aはショックで死亡したというように,結果発生に至る因果の経過が行為者の予想と違った場合をさす。
これらの錯誤のいずれが故意を阻却するかについてはいろいろな見解が主張されている。行為者の認識と現実に発生した事実との間に具体的な一致を要求する〈具体的符合説〉によれば,錯誤はつねに故意を阻却する(たとえば,A人をねらってピストルを射ったが弾丸がそれてB人を殺してしまった場合,B人に対しては過失致死罪に問われるのみである)。もっとも,最近では,同一構成要件間の客体の錯誤は故意を阻却しないと解されている。〈法定的符合説〉は錯誤が同じ構成要件内にある場合には故意の成立を認める。この見解では,具体的事実の錯誤の場合は故意を阻却しないが,抽象的事実の錯誤は故意を阻却する(たとえば,A物をねらってピストルを射ったが,弾丸がそれて,B人を殺した場合,B人に対しては過失致死罪に問われるのみだが,A物をねらってピストルを射ったがC物をこわした場合は,C物に対する器物損壊罪に問われる)。また,〈抽象的符合説〉は行為者の認識と発生した事実とが構成要件を異にするときでも,軽い罪の限度で故意を認める(たとえば,人だと思って射ったところ人形だったという場合は,軽い故意の器物損壊罪の成立を認める)。これらの諸説のうち,通説・判例は法定的符合説をとるが,近時,修正された具体的符合説も有力に主張されている。
(2)法律の錯誤(違法性の錯誤,禁止の錯誤) 行為が法令上許されないことについて行為者の不知・誤信のあった場合をいう。たとえば,他人の物を盗っても法律上処罰されないと思い盗む場合をいう。行為者が法律の錯誤の下に行為した場合,違法性の意識はない。したがって,法律の錯誤は違法性の意識の裏返しの問題といえる。違法性の意識が故意の要件かについては争いがある。判例は,刑法38条3項(〈法律を知らなかったとしても,そのことによって,罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし,情状により,その刑を減軽することができる〉)の規定を根拠に不要説をとる。これに対して,責任を非難可能性と解するならば,行為者が違法と知って行為したとき責任非難が可能であることを理由に,違法性の意識を故意の要件と解する見解(厳格故意説)がある。それによれば,法律の錯誤はつねに故意を阻却する。また,違法性の意識ではなく,違法性の意識の可能性で足ると解する見解(制限故意説)によれば,法律の錯誤がやむをえない事情に基づいている場合には故意の阻却を認める。他方,違法性の意識は故意の要件ではなく,これと別個の責任要素と解する学説(責任説)もある。目的的行為論の創見にかかるが,故意を責任要素と解しつつ,違法性の意識を故意・過失に共通の要素と理解し,責任説をとる見解もある。責任説は,錯誤におちいったことが回避不可能のときは責任の阻却を,回避可能なときはその状況に応じて責任の減軽を認める。通説は,厳格故意説をとる。しかし,この見解のように法律の錯誤はつねに故意の阻却を認めることは刑事政策上妥当でないとして,責任説も有力に主張されている。
→責任
執筆者:堀内 捷三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
行為者の認識が客観的な事実等と一致しないことをいう。
犯罪の成立には、原則として行為者に故意がなければならない。そして、故意が過失と比べ格段に重く処罰される理由は、行為者が、犯罪事実(構成要件的事実)を認識し、かつ、これが法的に許されないこと(違法)を知りながら、あえて行為に出るところにある。したがって、行為者が、犯罪事実が存在するのにこれを誤認したり、行為が違法であるのに違法ではないと錯覚して行為を行った場合には、一般的に、故意は否定され、せいぜい過失があれば過失犯として処罰されるにすぎない。このように、故意論と錯誤論とは表裏の関係にあるといえる。
ところで、故意を認めるためには犯罪事実の認識を要するが、行為者が認識したところと、客観的な事実とが厳密に一致することまで要求すると、刑法的にみてささいな不一致(錯誤)が存在するにすぎない場合にも、すべて故意を否定せざるをえなくなる。現に、具体的符合説とよばれる有力な見解によれば、行為者の認識したところと、現に発生した結果とが具体的に一致(符合)することを要求するから、Aを殺すつもりで、誤って傍らにいたBを殺してしまったような場合(この場合を「方法の錯誤」という)には、殺人罪の故意が否定される(ただ、この説でも、「客体の錯誤」すなわち、たとえば、Aだと思って攻撃したところ、実はそこにいたのはAでなくBであったような場合には、故意が肯定される)。これに対して、法定的符合説は、構成要件を基準として、同一構成要件内の錯誤(具体的事実の錯誤)の場合、すなわち、前述したような「人を殺す目的で、現に人を殺した」場合には、客体の錯誤、方法の錯誤、因果関係の錯誤のいずれであれ、「人を殺す」という点では法的に符合するから、故意を認めてもよいと解する。しかし、この説でも、異なった構成要件間の錯誤(抽象的事実の錯誤)の場合、たとえば、他人の犬を殺すつもりで、犬を連れていた人を殺してしまったようなケースでは、そもそも「人を殺す」意思がないから、殺人罪の故意は存在しないと解している(この点では具体的符合説も結論は同じ)。
次に、犯罪事実の認識はあるが、特別の事情により違法性を基礎づける事実を認識していない場合、具体的には、誤想防衛や誤想避難のように、違法性阻却事由(違法阻却事由)の錯誤の場合には、そもそも違法とされる事実そのものを認識していないのであるから、錯誤により犯罪事実を認識していない場合に準じて、故意が阻却される。したがって、たとえば、相手が攻撃してこないのに、攻撃してくると誤認して反撃を加えこれを負傷させたような場合には、故意が阻却されることになる。
また、行為が違法であるのに違法でないものと誤信した場合(違法性の錯誤、法律の錯誤、禁止の錯誤とよばれる)をどのように取り扱うべきか、については、違法性の意識は故意の要素かという問題に関連して見解は分かれる。厳格故意説(違法性の意識は故意の要素であると解する説)の立場においてのみ、違法性の錯誤は故意を阻却するという結論になるが、違法性の意識を要しないとする支配的見解によれば、違法性の錯誤は故意を阻却しないと解されている(ただし、違法性の意識の可能性を要するという制限故意説などがある)。
[名和鐵郎]
意思表示をした者の内心の意思と表示とが食い違っている意思表示であって、その食い違っていることを表意者自身が知らないことを錯誤という。たとえば、1千万円と書くつもりでうっかり1千円と書いたり(表示上の錯誤)、ポンドとドルとは同価値であると誤解して10ポンドの価値を意図しつつ10ドルと表示したり(内容の錯誤)、受胎している良馬と誤解して駄馬(だば)を買った場合(動機の錯誤)などである。民法は、意思主義の下に、「法律行為の要素」に錯誤がある意思表示は無効になるものとした(95条)。表示上の錯誤と内容の錯誤が要素の錯誤となることに問題はないが、動機の錯誤が要素の錯誤になるかにつき、かつては動機が表示されると要素の錯誤になると解されていた。しかし、最近ではこのような区別をせず、意思表示の内容に関し(ただし、動機を排斥しない)、その重要な部分に錯誤があった場合(すなわち、その錯誤がなかったならば、本人も普通一般人も、その意思表示をしなかったであろうという場合)には、当該意思表示は法律的な効力を生じないものと解する考え方が有力である。ただし、表意者に重大な過失がある場合には、表意者自ら無効を主張することはできない(95条但書)。なお、この錯誤者保護も会社法では制限がある(51条2項、102条4項、211条2項)。
[淡路剛久]
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…こうして,行為の研究は,目的,計画,意思決定といった内的過程のなかで役割を果たす概念の解明に集中することになる。ここで,以上のような観点から行為の錯誤について考えると,錯誤は,意図を形成する意思決定の過程で生ずる誤りと,意図を実現するさいに生ずる間違い(度忘れ,うっかりした書き間違い,などのスリップ)とに大きく区別される。後者の場合の錯誤は行為の実行過程で生ずるものなので,比較的誤りが判明しやすいが,前者の場合の錯誤は,プログラム自体の誤りともいえるものであるため,さまざまな情報が最初の意図の制約のもとで解釈され,誤りが判明しにくく,大事故につながる場合もある。…
※「錯誤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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