関城跡(読み)せきじようあと

日本歴史地名大系 「関城跡」の解説

関城跡
せきじようあと

[現在地名]関城町関館

大宝だいほう沼に突出した舌状台地の先端部を利用して築城され、北を守れば防御が容易な天然の要害である。国指定史跡。南北朝初期に関氏の築城とされるが、関宗祐の戦死でいったん廃城になり、戦国時代に多賀谷氏によって再建・修築され、下妻城の支城として使用された可能性が強く、遺構にも戦国期に手を加えた形跡がある。

台地最先端の字内館うちだての部分が本丸に相当し、その北側に台地の東西を結んで土塁と堀が築造され、現在もその一部が残る。北西部にはほぼ南北に走る三筋の土塁と堀があり、その西の字堀間ほりかんには比較的広い堀が二本掘られ、その間の台地が曲輪となっている。字堀間に東外館ひがしそとだて・西外館という地があり、西外館の西側には護良親王決別の宴の地と伝えられる大将山たいしようやまがある。

関城跡
せきじようあと

[現在地名]関町新所町

鈴鹿川と加太かぶと川の合流地点から鈴鹿川が大きく湾曲する内側左岸丘陵上にある戦国期の城跡。関地蔵せきのじぞう城とも称する。鈴鹿川に沿う東海道から、加太川に沿う大和街道が分岐する要地にあたる。頂上で標高一五二メートル。一一二メートルの地点に石垣空濠が残る。「三国地志」にせき城とあり、「一説新所ハ盛信ノ城塞ニシテ、亀山ノ本城ト云」とあり、「五鈴遺響」には新所城跡として「本駅ノ西口ヲ今新所ト云、旧ハ新城或新庄ト書ス、山頭ニ関塞ノ址アリ、北畠物語勢陽軍記新城ト載タリ(中略)亀山城主関安芸守盛信入道万鉄斎ト号ス、新ニ所築ニシテ隠居地ナリ、今廃シテ新城ノ名ヲ遺セリ」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「関城跡」の解説

せきじょうあと【関城跡】


茨城県筑西(ちくせい)市関舘にある城跡。市の南端に位置し、かつては東・南・西の三方を大宝(だいほう)沼に囲まれた台地にあり、北は台地続きで土塁と堀をめぐらせた天然の要害になっている。宅地化や耕地化によって遺構の残存状況は部分的であるが、北東に残る土塁は高さ4m、上端の幅5mほどの巨大なもので、北西の土塁は腰曲輪(こしぐるわ)、土塁、空堀、水堀を組み合わせる工夫がこらされ、西側下にはかつて沼上を交通路とした船着き場らしき跡が認められる。そもそもは、結城家2代朝広の4男朝泰が関氏を名のり、その居城として築いた。南北朝時代、南朝方は奥羽地方の兵力を結集して拡大をはかろうとし、義良(のりなが)・宗良(むねよし)親王を奉じ、補佐役の北畠親房(ちかふさ)らとともに伊勢を出航したが、途中で暴風にあい、親房の船は単独で常陸国に上陸した。いくつかの城を経て小田城(つくば市)に入った親房は、城主小田治久が北朝方についたため、1341年(興国2・暦応4)に関宗祐(むねすけ)の関城に入り、大宝城(下妻市)の下妻氏、伊佐氏などの南朝勢力とともに、高師冬(こうのもろふゆ)らの北朝軍と戦った。親房は関城にいるときに、小田城で書いた『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に筆を加えて完成させた。しかし、1343年(興国4・康永2)、関城は大宝城とともに陥落し、廃城となった。戦死した関宗祐・宗政父子の墓とされる宝篋(ほうきょう)印塔や北朝方が侵入するために掘ったという坑道跡も残っている。1934年(昭和9)に国指定史跡になった。関東鉄道常総線騰波ノ江(とばのえ)駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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