日本大百科全書(ニッポニカ) 「隠れキリシタン」の意味・わかりやすい解説
隠れキリシタン
かくれきりしたん
潜伏キリシタン、また「はなれ(キリシタン)」ともいう。江戸時代の初期にキリシタン宗門は幕府によって徹底的に弾圧されたので、キリシタン信徒はすべて処刑されたが、平戸(ひらど)島とその付近、西彼杵(にしそのぎ)半島の西岸、すなわち外海(そとめ)、また浦上(うらかみ)とその付近、五島地方(以上長崎県)、天草(あまくさ)地方(熊本県)には、表面は仏教徒を装い、内心では祖先代々受け継いだキリシタン信仰を保持した人々、またキリスト教から離れた一種の混成宗教を信奉する人々がかなり大ぜいいた(1805年の幕府の取調べでは、信徒数5000人以上)。たとえ表向きとはいえ、仏寺の檀家(だんか)となり踏絵を踏んでキリシタン信仰を拒否することは、教会が厳禁したところであり、キリストの教えにも背くことであるから、これらの人々を、先に殉教した純粋なあるいは真のキリシタン信徒と同一にはみなしえない。これらの人々の信仰におけるキリスト教的要素は、地域的に、また年代的にもかなり異なっているから、総称するのは困難であるが、通常「隠れキリシタン」とか「潜伏キリシタン」とよんでいる。
また、幕末にカトリックの布教が再開されてから、それら「隠れキリシタン」の多くがカトリック教会に属するようになったので、その後もなお祖先からの独自の伝統的宗教を保持している人々を、カトリック教会では「はなれ」と称している。近年、そのような独自の信仰を保持している人々は急速に減少して約3万人といわれるが、宗教学、民俗学、文化人類学の立場から、この特異な信徒集団とその信仰に関して優れた研究が発表されている。
隠れキリシタンには大別して2系統があり、一つは「日繰り」といわれる教会暦を信仰の中心とし、他は「納戸神(なんどがみ)」を信仰の中心とする。前者は浦上、外海、五島、後者は平戸、生月(いきつき)方面である。いずれも組織化されているが、役職の名称は土地によって若干異なる。前者では普通、帳方(ちょうかた)といわれる者が最高の指導者で、「日繰り」を伝え、教会暦による祝日を割り出して信徒に伝え、水方(みずかた)が赤子に洗礼を授ける。後者では爺役(じいやく)が洗礼を授け、ご番役が納戸神を保管する。これらの地方では、江戸時代に幾度かその異様な信仰が問題とされ、1790年(寛政2)に「浦上一番崩れ」、1805年(文化2)に「天草異宗露見」、1842年(天保13)に「浦上二番崩れ」といわれる事件が生じたが、奉行所(ぶぎょうしょ)はこれを「異宗」とみなし、検挙者を説諭するにとどめた。
[松田毅一]
〔世界遺産の登録〕2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。以下の12件の構成資産からなる。「天草の﨑津(さきつ)集落」(熊本県天草市)、「原城跡」(長崎県南島原市。以下すべて長崎県)、「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳(やすまんだけ))」「平戸の聖地と集落(中江ノ島(なかえのしま))」(平戸市)、「外海の出津(しつ)集落」「外海の大野集落」「大浦天主堂」(長崎市)、「黒島の集落」(佐世保市)、「野崎島(のざきじま)の集落跡」(小値賀(おぢか)町)、「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」(新上五島(しんかみごとう)町)、「久賀島(ひさかじま)の集落」「奈留島(なるしま)の江上集落(江上天主堂とその周辺)」(五島市)。
[編集部 2018年9月19日]
『片岡弥吉著『かくれキリシタン――歴史と民俗』(NHKブックス)』▽『田北耕也著『昭和時代の潜伏キリシタン』(1954・日本学術振興会/1978・国書刊行会)』▽『古野清人著『隠れキリシタン』(至文堂・日本歴史新書)』